日本神話を裏古事記で読むと史実となる

天照大神の誕生

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

日本神話として古事記があります。

読み物として古事記を読む人もいるとおもいますが、飛騨に伝わる日本人のルーツや国の成り立ちを口碑として託された山本健造氏は、
「古事記に書かれている神話は、歴史的事実が元となって創られています」
と言っています。

山本健造氏は20年近く、口碑が正しいか神話古事記が正しいかを日本全国実地調査し口碑が史実として正しいと確信しました。

飛騨に伝わる口碑は正しいと判断した根拠を
『明らかにされた神武以前』『日本起源の謎を解く』
としてまとめ「福来出版」から発行しています。

今回は、日本の神話として古事記現代語訳に書かれている
伊耶那岐命(いざなぎのみこと)伊耶那美命(いざなみのみこと)
に関する史実と二人の長女であるヒルメムチ命
《後に、天照大御神(あまてらすおおみかみ)》

に関しての口碑を山本健造著(1992)『明らかにされた神武以前』福来出版、
山本健造(原著者)山本貴美子(編集者)(1997)『日本のルーツ飛騨』福来出版から抜粋して紹介します。

  • 日本神話の史実、飛騨(イザナギの命)と出雲(イザナミの命)の政略結婚
  • 日本神話の史実、天照大御神(姉)とスサノオの命(弟)
  • 日本神話の史実、天の安川原(あめのやすかわら)は飛騨の安川原のことだった

神話の史実、飛騨(イザナギの命)と出雲(イザナミの命)の政略結婚

古事記の現代語訳で、「イザナギの命とイザナミの命」天地のはじめを読んでいくとこう書いています。

『天の神様方の仰せで、イザナギの命(みこと)・イザナミの命(みこと)の命御二方(みことおふたかた)に、「この漂っている国を整えてしっかりと作り固めよ」とて、りっぱな矛(ほこ)をお授けになって仰せつけられました・・・』

この続きを読んでいくと、神話化し過ぎて史実が解らなくなっています。

飛騨に伝わる口碑では、伊邪那岐命(イザナギのみこと)は、初代大淡上方様(おおあわのうわかたさま)から数えて34代目の皇統命(すめらみこと)です。

伊邪那美命(イザナミのみこと)は、御后(おきさき)として出雲(現代の島根県)から来られました。

話を日本国造りのキッカケに戻して説明します。

大淡上方様が国造りを始める

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

初代大淡上方様が深い日抱御魂鎮(ひだきのみたましずめ)から、
「将来海から上がって来た人達が暴れたり、喧嘩したりする事が起きる」

と近い将来を透視され、末永く皆が幸せで暮らすためには”国造りじゃ”と言って代々その言葉を総本家である上方様を中心にして守り・団結し、飛騨中が国らしくまとまっていきました。

第15第淡上方様による国造り

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

そして、平和な幸せな時間が流れ十五代目に淡上方様(あわのうわかたさま)と申し上げる大変賢くて神通力の優れた御方が、飛騨中を治めるには雪のない宮村
(宮とは尊い御方の住所で現在の高山市一ノ宮町)の方が都合がよいと都を丹生川の奥から宮村へ移す決心をされたのです。

さらに、神通力の優れた15代目淡上方様は、
「飛騨は国らしく固まってきた、海の外から敵に攻められる前に海辺を守り連絡網をつくるぞ。
その為には、瀬戸内海へ行き早く立派な船を造るのじゃ」
と命じたのです。

イザナギとイザナミの国生み

発行者:若松範彦 監修者:多田 元「もう一度学びたい古事記と日本書紀」発行所:株式会社西東社から引用

34代伊邪那岐命(イザナギのみこと)が、出雲からお妃として伊邪那美命(イザナミのみこと)と結婚した頃には、15代淡上方様の言われた「海辺を守り連絡網を作るぞ」と言う体制が整っていたと考えると神話古事記が史実として見えてきます。

飛騨政権の連絡網と出雲政権

山本健造著(1992)「日本起源の謎を解く」福来出版を引用します。

15代淡上方様が都を宮村に移し34代伊邪那岐命のころには、
「宮村から隣国への命令が伝わり、情報も宮村に集まりました。
そのころは信州や大陸に近い出雲にも、富士山麓、仙台などにも政権らしいものが出来かけていたのです。

九州は、大陸から来た人の子孫が殖えて三つの集団に分かれて戦争していました。

飛騨の政権は新潟や、伊勢、琵琶湖、若狭、富山、鶴来、瀬戸内海の大三島、伊豆などに身内の者を派遣して連絡網をつくりかけていました。

そして、
出雲政権は大陸の文化を入れて巨大でしたので政略結婚を繰り返しました。」
とあります。

飛騨政権と出雲政権が将来いつまでもなかよくしていくことを誓い政略結婚を行ったことは、団結して固まって皆が幸せに暮らす国造りには必要な事であったと思います。

 日本神話の史実、天照大御神(姉)とスサノオの命(弟)

古事記現代語訳では、
「左目から天照大神(あまてらすおおみかみ)が生まれ、鼻から素戔嗚命(スサノオのみこと)が生まれた」と神話化して書いています。

飛騨に伝わる口碑では、御懐妊なされていた伊邪那美命(イザナミのみこと)が
高山へお出かけになっている時に産気づかれ、お生まれになったのが御長女ヒルメムチ命(後世、天照大御神と申し上げる)です。

出産の時の胎盤(えな)を埋めた所が今の「荏名(えな)神社」の辺りで高山市江名子町として地名を留めています。

ヒルメムチ命(のみこと)の”ヒル”とは、昼の太陽のように明るいと言う意味で”メ”とは女性の事、”ムチ”とは、尊いと言う意味。

ヒルメムチ命とは、”昼の太陽のように明るく尊い女性”という名前です。

ヒルメムチ命(天照大神)は幼いころから、それはそれは賢くて美しく、しかも神通力が大そう優れておられたのです。

弟に素戔嗚命(スサノオのみこと)が生まれましたが、父の伊邪那岐命(イザナギのみこと)はヒルメムチ命(のみこと)に皇統命(すめらみこと)の位をゆずられるのです。

天照大神と思兼命との子供

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

山本健造(原著者)山本貴美子(編集者)(1997)『日本のルーツ飛騨』福来出版から
「太陽の如し、ヒルメムチ命(天照大神)」を紹介します。

伊邪那岐命(イザナギのみこと)の後を継いで第35代皇統命(すめらみこと)となられたヒルメムチ命(のみこと)は、山下住命の子孫の思兼命(おもいかねのみこと)を婿に迎えました。

『古事記』ではヒルメムチ命、後に天照大神と讃えられる御方を神格化し、荘厳絶対化(そうごんぜったいか)するあまり、主人をぼかしてありますが、

それでも『古事記』の一節に「この鏡と思兼命とは伊勢国の五十鈴(いすず)の宮、即ち内宮に座す神で」とあり、天照大神と思兼命を並べて内宮に祀ってあることを示しています。

高天原(たかまがはら)で重要な役割をされた御方は大勢ありますが、思兼命だけがヒルメムチ命(天照大神)と並べて祀ってあるということは、夫婦であったことを遠回しに表現したのです。

ヒルメムチ命(天照大神)と思兼命(おもいかねのみこと)の間には五男三女の子宝が恵まれました。」
と飛騨に口碑として伝わっていました。

古事記の神話から日本のルーツをイメージするよりも、飛騨に伝わる口碑の方が史実としてイメージできるのではないでしょうか。

素戔嗚命(スサノオのみこと)、出雲でオロチ退治

素戔嗚命は出雲へ行く

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

引き続き、山本健造(原著者)山本貴美子(編集者)(1997)『日本のルーツ飛騨』福来出版から紹介します。

素戔嗚命のオロチ退治

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

「弟の素戔嗚命(スサノオのみこと)は、青年の時、若気のあまり飛騨を出奔
(しゅっぽん=抜け出すこと)して、母親の里である出雲へ行ってしまいました。

素戔嗚命が出雲に辿り着いてみると、シベリアのオロチ族の男達が出雲に上がって来ており、砂鉄で剣(つるぎ)を作っていたのですが、女を求めて荒ひ、騒動を起こしていました。

素戔嗚命は、この男たちに酒を呑ませ、酔い崩れた所を斬ったのです。
これが、『古事記』に出てくる「八岐(やまた)の大蛇(おろち)退治」です。

その頃、鉄剣は貴重なものであり、草を薙(なぎ)切る程に切れ味がよいので草薙剣(くさなぎのつるぎ)ともいいました。

出雲には今も砂鉄から鉄を造った粘土の釜や鉄くずの塊の岩が残っています。」

どうでしょうか、
古事記の神話化したものより口碑の方が史実としてイメージできると思います。

ヒルメムチ命(天照大神)の子と素戔嗚命(スサノオのみこと)の子の婚約

天照大神と素戔嗚命の誓約

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

引き続き、山本健造(原著者)山本貴美子(編集者)(1997)『日本のルーツ飛騨』福来出版から紹介します。

その後、素戔鳴命(スサノオのみこと)が子供や家来を大勢連れて飛騨に挨拶に来ました。

その時、姉であり皇統命(すめらみこと)であるヒルメムチ命(のみこと)に草薙の剣を献上したのです。

そして飛騨政権と出雲政権が将来いつまでも仲良くしてゆく為に、ヒルメムチ命の三人の娘を素戔鳴命の三人の息子の嫁にやり、ヒルメムチ命の息子一人を素戔鳴命の娘の婿にやる相談がまとまりました。

素戔鳴命達がしばらく飛騨に滞在して、帰る時、適齢期になっていたヒルメムチ命の長女多紀理姫(たぎりひめ)と息子の熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)が一緒に出雲に行ったのです。

長女多紀理姫は素戔鳴命の後継者である大国主命(おおくにぬしのみこと)と結婚しました。

その子供が出雲の支配者となり、更に多紀理姫(たぎりひめ)の妹二人が出雲に嫁ぎ、男子が婿に行き出雲政権を応援すれば、飛騨と出雲はいつまでも仲良くできると皆が心から願い、誓ったのです。

この誓いを『古事記』では「姉弟の子生みの誓い」と書いてあるので姉弟が八人の子を一度に産んだと誤解する人がいるのです。

日本神話の史実、天の安川原(あめのやすかわら)は飛騨の安川原のことだった

古事記現代語訳になかに、
「神々が天のヤスの川の川原で会議をなされ、天下を平定し・・・」
と書かれています。

山本健造(原著者)山本貴美子(編集者)(1997)『日本のルーツ飛騨』福来出版では、
「今から約2200年(~2300年)前に、飛騨では素晴らしい民主主義が発達し議会が発達していました。」とあります。

天の安川原でみんな集まり相談した

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

あるお天気の良い日、飛騨中の人が高山の安川原に集まりました。
飛騨中の人が集まるには宮村の川原では狭いので、宮川が岩にドーンとぶつかった所に広い広い川原が現在の飛騨高山に広がっていました。

二千数百年前、山国の飛騨では皆が集まる広い場所は川原が一番良かったのです。

何故、安川原というのか?
それは安らかに相談しようということなのです。
喧嘩腰でなく安らかに相談したのです。

後に敬って天がつき天安川原として『古事記』に出てきます。
現在高山市に安川通りとなって名を留めています。

高山の安川原で、思兼命(おもいかねのみこと)が議長になって今までのいきさつを報告しました。

さらに良い意見の持ち主は発表させて、全ての人の合意のもとに、

  1. 大和に都を移すこと。
  2. 三姫の報告を聞いてから、できるだけ多くの飛騨の男女が筑紫平定に行く。
  3. 平定後、飛騨まで帰らず、すでに準備を進めている大和に入って都を開く。

決定されたのです。

古事記でいう高天原(たかまがはら)、飛騨高天原説

古事記現代語訳に、
「暴風の神であり出雲系の英雄でもあるスサノオの命が、高天の原に進出し、その主神である天照大神との間に、誓約(うけい)の行われる事を語る」
とありますが、高天原(たかまがはら)とはどこなのでしょうか?

古事記は神話化されているので、天上界にあるイメージを私は持ちました。

しかし、飛騨に伝わる口碑を託された山本健造氏の著書『明らかにされた神武以前』を読むと地上界の話で史実と受け止められました。

詳しくは、山本健造著(1992)『明らかにされた神武以前』福来出版を読んでほしいと思いますが、下記に一部紹介します。

「高天原についての諸説高天原とは古代の政治の中心地ということです。
それが高貴な神のおわす所の意ともなり、皇居の所在地ということでもあります。

高天原は昔の人の考えたように、雲の上の大空にあったのではないのです。
現代のように科学の進歩した時代では、月にうさぎがいるとか、かぐや姫が月に帰ったというのも御伽話であることは小学生でも知っており、

人間が空の上から降りてきた、などという現実離れをしたことはとても信じることはできません。

『古事記』の内容も必要以上に美化せず、民族の現実の歴史として科学的に考察する必要があります。

日本の縄文時代から弥生時代には政治の中心が60もあったらしいのです。
それが段々と国がまとまり30位になった頃もあったと思われます。

そこで『古事記』や『日本書紀』につながる高天原はどこにあったか?
これを科学的に研究することが大切なことになり、日本のルーツを探る大問題となってくるのです。

さて高天原の所在地については諸説があって定まっていません。
参考までに次に掲げてみますと、
1 天上説  本居宣長、一条兼良
2 海上説  新井白石 (常陸多珂郡の海上)
3 地上説
A 大和説  山崎闇斎 (いま学者達に最も支持されているようです)
B 豊前、豊後地方説  多田南嶺
C 近江説  井口丑一
D 朝鮮説  大谷博士
E 飛騨高山説  酒井勝軍
F その他、満州説、馬来地方説、メソポタミヤ説、ユダヤ説、アルタイ山脈説、インド説などがあります。

飛騨高天原説の科学性についてどの説が本当なのか考えてみましょう。

私は酒井勝軍氏の論拠には科学性が薄いと思っています。
私は別の角度から飛騨説をとりたいと思います。

1・血液型がよく似ているからアジア大陸に高天原があるという説がありますが、自然環境がよく似ていれば大陸と島との間に直接の交流がなくても、別々に進化して共通の血液型の人類が出てきても不思議ではないと思います。

2・信仰の方角から考える必要があります。
インドの西方の中央アジアにいたアーリア民族が東へ東へと移動してインドに入り、インドの原住民は次第に下層に追われた形となりました。

ネパール地方に栄えたアーリア民族の中の釈迦族の王子ゴーダマ・シッタルタの開いた仏教は、民族の故郷を懐かしんで西方に極楽を求めて拝んだのです。

九州の日向に興った日向神道が東方を拝んでいることを考えれば、大和民族のルーツは東方にあると思います。

高千穂市の市長甲斐畩常氏は高天原は朝鮮であると書いておられます。
その理由として

「朝鮮語が九州方面にたくさん入って残っている。
朝鮮文化が入ってきたのは、邇々芸命(ににぎのみこと)が朝鮮の御方の証拠である」
と書いておられますが、朝鮮の御方ならば先祖を祭る神道は北西を拝むはずです。

邇々芸命(ににぎのみこと)が南方民族であるならば、南方を拝む神道が興っていると思われます。

邇々芸命(ににぎのみこと)が朝鮮や南方の諸国の御方であるならば、伊勢国の鈴鹿の猿田彦命(さるたひこのみこと)が、皇孫が高天原から御下りになる時の道案内に出る必要がないことになります。

また言語、風俗、文化は、後世入国して定着すると原初のものと思い誤ることがありますので簡単に信じられません。用心深く研究せねばなりません。」・・・

山本健造氏による「飛騨高天原説」の証明はまだまだ続きがありますので興味がある方は是非、一度著書を読んで頂きたいと思います。

(山本健造著(1992)『明らかにされた神武以前』福来出版 引用)

まとめ

  •  古事記に書かれている「国生み」「神生み」は、あまりにも神話化し過ぎておとぎ話としか思えない。
    しかし、飛騨に伝わる口碑は初代大淡上方様(おおあわのうわかたさま)から「国造りじゃ」と言う使命を代々守り受け継ぎ、皆が幸せに暮らせるために飛騨政権と出雲政権とで行われた政略結婚であるとなれば、史実として受け止められると思います。
  • 古事記では天照大神(あまてらすおおみかみ)を神格化し過ぎるあまり左目から生まれたとするが、山本健造氏によると「古代は左が優れ、右はそのつぎという考えがあったから」としています。
    また、素戔嗚命(スサノオのみこと)は鼻を洗ったら生まれたというのは、「鼻を荒々しく洗ったことと気性の荒い素戔嗚命と結び付けたまでのこと」と言っています。
    ヒルメムチ命(天照大神)と素戔嗚命は姉弟であり、ヒルメムチ命(天照大神)には、思兼命(おもいかねのみこと)と言う夫がいて、五男三女に恵まれています。
  • 十五代淡上方様(あわのうわかたさま)のとき、都を丹生川の奥から宮村へ移しました。
    宮村(現高山一ノ宮町)には連絡網からの情報が集まり、皇統命であるヒルメムチ命(天照大神)を中心に広い宮村の安川原(現在の役場裏の川原)で会議をしたのです。
    そして、議長役を務めたのがヒルメムチ命(天照大神)の夫である思兼命(おもいかねのみこと)だったのです。
    古事記を読むと、高天原(たかまがはら)を神々の住む天上界と思っても無理はありません。
    しかし、高天原を政治の中心地として見ると「古事記に書かれている神話は、歴史的事実が元となって創られている」と言えます。