古事記の嘘、ヤマノフモトへ天孫降臨・筑紫へ遠征・神武御帰還・が正しい

大和(やまと)と何故言うのか

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

日本人のルーツや日本起源を知りたいと思って、古事記や日本書紀その他を読んで疑問に思った事はないでしょうか?
例えば、

  • 天孫降臨の天孫とは?天上界と地上界ってあるのか?
  • なぜ「大和」と書いて「ヤマト」と読むのか?
  • 古事記に書かれている「神武東征」の目的は?
  • 饒速日命(にぎはやひのみこと)とは、謎が多く何者?
  • 長髄彦(ながすねひこ)は殺されたの?
  • なぜ、古事記は神話化されたりおとぎ話化されているのか?

このような疑問は、古事記や日本書紀を読んでもスッキリと納得できるように書かれていません。

しかし、飛騨の山奥に大昔から日本起源や日本人のルーツとなる皇室の事や日本の極秘事項が口碑として伝わっていました。

飛騨に伝わる口碑は、神話や物語として伝わっているのではなく、史実として伝わっているため疑問が湧きません。

その口碑を山本健造氏に、
いつか良い時期がきたら伝えてくれよ
と語部翁(かたりべおきな)から託されていました。

山本健造氏は口碑が正しいか、古事記・日本書紀が正しいか全国を実施調査すること20年、口碑のほうが正しいと解り本に纏めています。

その著書『日本起源の謎を解く』『明らかにされた神武以前』『日本のルーツ飛騨』の中から上記の疑問を解いていきたいと思います。

このブログでは、山本健造氏の著書内容を『裏古事記』として紹介しています。

国家永遠の安泰を願い飛騨から下山した飛騨民族のことを天孫降臨と言う

飛騨の口碑では、「天孫」とは、飛騨民族のことであり「降臨」とは、飛騨民族の下山(大移動)のことです。

口碑の内容を簡単に紹介します。
『日本で一番初めに生き物が出た所は淡山(あわやま=乗鞍岳)のふもと(丹生川の奥)であり、人間まで進化しました。

今から、2300年~2500年位前のこと、初代大淡上方様(おおあわのうわかたさま)と言う大変賢く神通力(日抱御霊鎮により起こる現象)が強く過去も、未来も、また四方も見通しの効く偉い人が現れた。

日抱御霊鎮中に、近い将来異民族が海を渡って来て暴れることを見通し外国に侵略されず、皆が幸せに暮らせるにはどうしたらよいかいろいろご心配なされた。

そして、大淡上方様を中心にして皆がまとまって国造りを創められました。

中心となる大淡上方様を本家として苗字がなく
長男(山麓住命=やまのふもとずみのみこと)・次男(山下住命=やまのしたずみのにこと)は分家として、苗字を与えて飛騨の要所と富山方面を守らせるため仲間と一緒に下山(天孫降臨)させたのです。

末っ子、三男(直系命=まっすぐのみこと)は大淡上方様の後を継ぐ。

日本の古代は末子相続性でした。長男相続は「儒教思想」によるもの
「日本起源の謎を解く」から引用

第15代淡上方様の代になると、乗鞍のふもと(丹生川の奥)に大雪が降るようになったので、丹生川の奥から飛騨の宮村に都を移された。

この時は、飛騨民族の大移動(天孫降臨)となりました。

淡上方様(あわのうわかたさま)もまた、すばらしい神通力者であり日抱御霊鎮が良くでき予言がピタリとあたった。

その淡上方様は、海辺を固め連絡網を作り早く立派な船を造るようにと危険な役割を自分の身内に命令しました。

代々上方様から分家した一族(天孫)が大勢、鈴鹿・瀬戸内海方面へ降っていきました
(天孫降臨)』

天孫とは、高天原(飛騨)から降りて来た人々で、日本全体の事を案じ、身内の者を危険な場所に遣わし、自ら進んで国難に当たったり、

日抱御霊鎮から得た神通力で病気を治したりしたので尊敬され、天孫子(あびこ)と呼ばれた。

飛騨より国造りのために下山した人を漢字が伝来してからは天孫(てんそん)とよびました。

(山本健造著『日本起源の謎を解く』福来出版P288から参照)

古事記を読むと天孫とは、天照大神の孫である邇邇芸命(ににぎのみこと)一人のように思わせる書き方をしています。

古事記は建国の功労者である、飛騨民族史実をワザと書かなかったとしか思えません。

畿内の大和とは、「ヤマノフモト」がつづまって「ヤマト」になったと口碑で伝わっている

天の安川原で天照大神が話す

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

『第35代皇統命(すめらみこと)のヒルメムチ命(天照大神)の代になると、飛騨の人たちが全国に広がり国らしく纏まってきました。

ヒルメムチ命も日抱御霊鎮が大変良くできた御方であり、近い将来の事をピタリと当て外した事がありませんでした。

そのヒルメムチ命が日抱御霊鎮中(夢見)に、筑紫(九州)へ異民族が海を渡って来て暴れて元々住んでいる人を苦しめ殺して行き、このままなら侵略されてしまう事を透視したのです。

そこで、飛騨中の人が高山の安川原に集まり相談したのです。
その決定事項とは、

  1. 外国の侵略を防ぎ、皆が幸せに暮らせるように、皆から敬われている皇統命を中心に日本を一つにまとめる。
  2. 飛騨は山奥すぎ、冬は雪が多くて国をまとめていくには身動きがとれないのでヤマノフモト(後に大和=畿内)に都を移す。
    ヒルメムチ命(天照大神)の孫の饒速日命(にぎはやひのみこと)は近畿を開拓して、弟の邇邇芸命(ににぎのみこと)の帰還を待つ。
  3. 邇邇芸命を総大将として、早く筑紫(九州)を平定する。
    平定後は、飛騨まで帰らずヤマノフモト(大和)に入って都を開き治めよ。
    (想定外、筑紫平定に30年余りも経って邇邇芸命の孫に当たるサヌの命(神武天皇)が大和へ帰還した)

全員一致で大方針が決められました。

最近科学者によってなされた、三方湖底に沈殿する植物の花粉調査によると、約九千年前から約7000年間も地球の温度が今より7度も高く、飛騨から東北地方にかけては人類生存の絶好地でしたが関西方面は不快指数が高かったのです。

ところが2500年前から2000年前頃に温度が低下し飛騨に大雪が降るようになり、飛騨政権を温暖の地に移す必要に迫られて、天の安川原の会議で下界(ヤマノフモト)に降りるように決議されていたのです。

ヤマノフモトは約まってヤマトになったと老翁はいいました。

(山本健造著「明らかにされた神武以前」福来出版P5から引用)

兄の饒速日命は近畿に天孫降臨し開拓、弟の邇邇芸命の帰還を待つ

大和朝廷の起こり

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

日本の古代は末子相続制でしたので、直系の末子以外の人々は安川原での会議で決まったとおり、ヒルメムチ命(天照大神)の子や孫をはじめ大勢の他の人々と共に、ヤマノフモト(大和)に都が開けるように降臨(民族大移動)したのです。

近畿一体を開拓する為にヒルメムチ命の孫の饒速日命(にぎはやひのみこと)は、弟の邇邇芸命(ににぎのみこと)が皇統命の位を授けられて筑紫へ降臨されるより一足早くヤマノフモト(畿内=飛騨から見れば)に降りられたのです。

ヒルメムチ命の息子天津日子根命(あまつひこねのみこと)は一族を引きつれて滋賀県の彦根に下り開拓され、そこに祖父母の伊邪那岐命と伊邪那美命を祀り、それが後に多賀大社(たがたいしゃ)となって発展し、彦根(ひこね)という地名になりました。

さらに天津日子根命はそこを身内の者に任せて、三重県の多度を開拓されてそこで崩ぜられました。

天津日子根命の子大河内命やその子孫は各地を開拓され、いたる所に河内(かわち)、大河内の地名をとどめています。

大河内命(おおこうちのみこと)の兄弟は多数あり額田命(すかだのみこと)は河内の大和へ、

茨木命(いばらきのみこと)は大阪の茨木へ、田中直命(たなかのあたえのみこと)は大和の田中郷へ、

山代命(やましろのみこと)は山城国へ馬来田命(うまくだのみこと)は上総国の望陀郡へ道尻岐閉命(みちのしきへきのみこと)は磐城国楢葉郡へ、

周防命(すおうのみこと)は周防へ淹知命(あむちのみこと)は大和の山辺郡庵知へ高市命(たけいちのみこと)は高市県へ蒲生稲寸命(がもういなきのみこと)は近江の蒲生郡へ、

三枝部命(さきくさべのみこと)は三枝と父の天津日子根命の命令によりそれぞれの地に赴いて土地を開拓されたのです。

筑紫(九州)が平定すれば皇統命が大和に入って都を開くことが決まっており、全ての分家の人々は総本家である皇統命に従って団結していく道徳が定まっていたのです。

出雲の如く大問題を起せば皆の心に印象ずけて後世に語り伝えられるのですが、美しく尊く当然の如くに約束事が守られて事件を起さなかったことが逆に忘れ去られてしまって、今では誰一人、子孫の人さえ尊い先祖の歴史を忘れてしまったのです。
皮肉といえば皮肉です。

大和へ天孫降臨

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

筑紫遠征後、大和へ帰還したのはサヌ命(神武天皇)、長髄彦は敵と勘違い

サヌ命(神武天皇)がようやく浪速に上陸して大和へ向って進んでいたところ、サヌ命一行と長髄彦(ながすねひこ)は互いに相手を敵と勘違いして戦になってしまいました。

その時サヌ命の兄五瀬命(いつせのみこと)が戦死されたので、サヌ命一行は、紀伊半島を回って上陸され(現在サヌの浜と地名になっています)そこから大和へ入られました。

後になって十種の神器を示し合い話し合ってみると共に大事な親戚であり、長い間開拓して都を開く為に準備をして待っていた総本家の皇統命であることがわかったのです。

日本書紀』に五瀬命を殺した責任上長髄彦を切ったと記されていますが『古事記』には触れていません。

飛騨の口碑」では、長髄彦は饒速日命(にぎはやひのみこと)の妻の兄に当たるので、表向き切ったことにして東北ヘ逃がしたと伝えています。

『日本書紀』と飛騨の口碑とどちらが正しいか調査したところ、長髄彦は、家来やその家族を連れて青森の十三湖に入りアラハバキ王国を建てたと地元に口碑が残っていました。

「アラハバキ」の事が書かれている、
東日流外三郡誌(つがるそとさんぐうし)』は、国を危うくする分裂、反逆精神で書かれた偽書であるが

山本健造氏は「但し、長髓彦が東北にアラハバキ王国を築いた事は認めます。
アラハバキとは飛騨では髓(すね)を守るために髓に当てる防具の事です。
これは飛騨語であり、長髓彦の遠祖は飛騨の大山祇命である証拠になると確信しています。」と説明。

飛騨では脛を守る物をアラハバキと言った

髓(すね)を守るハバキ

「アラハバキ」の語の起こり
飛騨は道らしい道はなく、茨(いばら)が至るところに生えていたので開拓の為に山野を跋渉(ばっしょう)する時はハバキというものを髓(すね)に巻いたのです。

私の家には先祖の用いた背板(荷を負う時の道具)とハバキが保存されてありました。

そして、柴や茨をどんどん歩み渡ることをアラコザキとも言います。
アラコザキするとき、足に巻くハバキをアラハバキと言いました。

アラハバキは飛騨の古代の人は必ず着用したもので、先祖から伝えられた皮のアラハバキは貴重なもので家宝の如く大事にしていたのです。

私の家に伝わっていたものは、しいなの皮で編んだものでした。
そしてこのアラハバキは戦争にゆく人の正当防衛精神の象徴であったのです。

それで飛騨の古代の人々はアラハバキ精神の契いをたてて、絶対に侵略しなかったのです。
ですからヒルメムチ(後に天照大神と讃う)が邇邇芸命を筑紫(九州)に遣わしになる時(天孫降臨という)も「戦争しないで話し合いでまとめよ」と申されたのです。

話し合いでまとめる事をアラハバキというように転化してきたのです。

こんなわけで、近畿、関東方面の神社の門外に小社を設けて、髄を守るかの如くアラハバキ神を祀るのが習慣になっているのです。
アラハバキ神社と堂々と名乗る神社もあります。

(山本健造著「日本起源の謎を解く」福来出版p132引用)

東北の津軽半島を邪馬臺国(やまとこく)とする説は、アラハバキ王国による

『日本書紀』では長髄彦は殺されたことになっていますが、飛騨の口碑では「殺したことにして東北へ流した」と伝わっています。

長髄彦は家来をつれ東北へ行き、そこでアラハバキ王国を建て、そこにヤマト城を築いたのです。

その城跡は二十数年前に土木工事の為崩されたのは誠に残念です。

奈良地方は長髄彦のいた頃、ヤマトと呼んでいたし、九州地方も卑弥呼がいた頃にヤマトと呼んでいたと推定されます。

飛騨の口碑では、山の麓住(やまのふもとずみ)と山の下住(やまのしたずみ)という家があり、ヤマノフモトはヤマモトと変わり、ヤマトと約まり、ヤマノシタズミはヤマズミと約まり、それに敬語のオオがついて、オオヤマズミとなったと古老達は伝えています。

この大山祇命(おおやまずみのみこと)を先祖と仰いで津軽半島に王国を建てた長髄彦は津軽に大山祇神社を残す因になったと推定されます。

そして津軽の山奥に城を築いてヤマト城と名をつけたわけがわかるような気がします。

大山祇命は飛騨の山奥の人で後に海浜に出て、舟を創られた人です。
子孫は先祖の名を大切にして代々襲名したのです。

(山本健造著「日本起源の謎を解く」福来出版から抜粋)

大和朝廷開かれる『神武天皇は実在し、神武以前の皇統命も実在する』

大和朝廷開かれる

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

邇々芸命の大和帰還が遅れて、浪速に帰還されたのが神武天皇であって、御東征ではなくて御帰還であったとみるべきです。

(山本健造著「明らかにされた神武以前」福来出版p215引用)

サヌ命は祖父邇邇芸命の素志を果たし、分家の人々も、飛騨の安川原で相談をして決めたとおりに約束を守り、皆で心を合わせ力を合わせて、大和に晴れて都が開かれることになりました。

この朗報は直ちに飛騨に伝えられました。

既に亡くなって位山に先祖と共に葬られておられるヒルメムチ命(天照大神)の墓前に報告され、位山の一位の木で作られた位板がサヌ命に授けられました。

(これ以後天皇の即位式には位山の位板が下がり後に笏木(しゃくぎ)と変わりましたが、今なおこの伝統は続いています)

こうして神武天皇(幼名サヌ)が大和の橿原で即位されたのです。

建国の中心になられ飛騨の位山に葬られたヒルメムチ命の偉大な徳を讃えて今なお天照大神と敬い続けているのです。

位山に葬られた天照大神

山本健造著「明らかにされた神武以前」より引用

岐阜県大野郡宮村の位山は淡上方様より天照大神、それ以降の飛騨で崩御されたスメラミコト一族の御遺体を葬ったと口碑があります。

この巨石のすぐ下には石を畳のように敷いてあります。
昔は立っていたと思われる巨大な柱状の石が傍に倒れたり、寄り掛かったりしています。

この山は一位の原始林であり、また太平洋と日本海の分水嶺です。
この山の頂上は広い平地であり、2000年前の祭場であったと推定されます。
水無神社と共に飛騨の最も神聖な山とされています。

(山本健造著「明らかにされた神武以前」P101引用)

サヌ命(神武天皇)が筑紫を去った後の筑紫(九州)は?

サヌ命を長兄の五瀬命(いつせのみこと)が護り、日向の美々津(みみつ)の浜を出発された後には次兄稲氷命(いなひのみこと)、三兄の御毛沼命(みけぬまのみこと)が残って筑紫(九州)を治めることになりました。

末子相続制でしたから御毛沼命が九州のヤマト国を治め稲氷命が助けられたと推定されます。

御毛沼命の子孫卑弥呼が筑紫の邪馬薹国を治めていた(西紀239年~266年)頃、魏に使いを送ったのです。

魏志倭人伝』には「邪馬薹国(やまとこく)」と記されていたのに書き写す時、薹(と)を臺(たい)と誤り更に台(たい)と誤り、

新井白石が
『古史通或問(こしつうわくもん)』で「邪馬台国(やまたいこく)」と記したので、今日でも知らぬ者はヤマタイ国と読む人がいます。

ヤマタイ国は読み誤りで、ヤマト国と改めるべきであり、いつまでもヤマタイ国と読むのは自らの無学を曝(さら)していることになります。

(原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より)

なぜ、大和と書いてヤマトとよむのか?

紀元五十七年頃に後漢の光武帝に九州の小国が入貢し印綬を授けられ「奴国」(なこく)の名を戴きました。

知らぬが仏で「奴」とは賤しい女の意です。

小さな賤しい奴隷の国の意です。

その後、卑弥呼(ひみこ)が入貢した頃は倭国(わこく)と名づけられました。

倭(わ)の字は倭儒(わじゅ)と作って小人の意に用いる字であって、倭の意味は、小人、従順な人、従うという意味であり、蔑視の意味が多分に含まれています。

日本では神武天皇以前からヤマトの語があったが、中国は倭(わ)とよびました。

最初は中国が筑紫の一小国を倭(わ)と呼びましたが、しまいには日本国全体の意味になってきたのです。

倭(わ)の意味が段々わかってきた日本の人は「ワ」の音は、そのままにして「和」の字とすりかえたのです。

そして美称の「大」を冠して「大和」と書いて、読みは「大和(ヤマト)」としたのです。

前にも触れた如く、飛騨から見れば奈良は「山のふもと」即ちヤマトなのです。

魏、蜀、呉の三国の歴史が書かれる頃(二八〇年頃か?)には中国では日本国を邪馬臺国(やまとこく)と呼んでいます。

どこをヤマト国と呼んだか?」
これが、学者間で激しい論争の種となっています。

(山本健造著「日本起源の謎を解く」p80引用)

ヤマト国は九州、大和、東北と三つあったのです。

その三つは親戚であり総本家は畿内の大和(やまと)であったのです。

そして、大和朝廷が開かれる以前、日本の中央の高地飛騨に都があったことが飛騨の口碑として残っています。

飛騨に伝わる口碑は、『古事記』や『日本書紀』の神話を、歴史として、いきた先祖の話として伝えております。

(山本健造著「日本起源の謎を解く」P8引用)

石冠(せきかん)と御物石(ぎょぶついし)の分布から解る、大和民族の移動

飛騨を中心に広がる石冠

山本健造著「明らかにされた神武以前」P250引用

石冠(せきかん)は祭祀に使われたと推定されます。

図の如き凸型の石が全国から199個(1991年現在)出土していますが、そのうち飛騨から74個、

新潟県中郷村の縄文晩期の墓地や近くから六五個出土し、その残りが東北、北陸の冷涼地方から出土していました。

ところが石冠発掘地図は62年に吉朝則富氏が作られたものですが、平成四年(1992年)6月の発表によると全国より石冠は約628個、飛騨より約300個が発見されています。

飛騨より全国の約50%が発掘されていることは重大なことです。
石冠は高度の彫刻がされていて、精神文化の高さを示しています。

これは飛騨が精神文化の中心であったことを証明しています。
縄文晩期に飛騨に大雪が降るようになり、それを避けて長野、新潟、富山、東北地方に移動するとき石冠に先祖を祀り込めて奉じたと推定されます。

後には現地の石で作ったと思いますが、日本の古代神道の源流が飛騨にあったと推定されます。

(山本健造著『明らかにされた神武以前』P250~引用)

石冠で証明された飛騨の精神性

大自然そのものを生命として拝むような素直な原始人が、だんだんと人知が進んでくると、全体的に大自然を認識する傾向から、

分析して部分を観察してその細分された部分を総合して全体を直観するという弁証法を自然に悟るような傾向に進化してゆきます。

すると、普遍的な宇宙生命を単一な個に象徴化して、それを拝んで個を通して宇宙生命の全体性を直観し体験しようとします。

そして遠く離れている者は、遠方から遥拝したり、石を御神体として高くその方角に安置し下に石を置いて、その石の上や前に魚や花を供えて先祖を拝み、

時間をさかのぼって遠い遠い先祖を拝み、宇宙の中に染み込んでいる宇宙大生命を拝んだのです。

それを終えてから水を貯めて太陽の光を映し、それを凝視し、深い深い御魂鎮めの中に入ったのです。

この時に高く安置した石には清らかな美しい石を使ったと思われますが、そんなに美しい立派な石はあまりないから、石に加工したと想像されます。

その石に「石冠(せきかん)」が使われたと推定されます。
適当な石がないときは粘土で作ったと推定されます。
石冠は図にあるような凸形に削って細工したものです。
その石には模様が刻まれています。

物を叩き潰す道具ではないか?との疑問もありますが、もし、潰す道具ならば、潰す底が摩滅しているはずなのに、それがなく、底に彫刻があったりして全然摩滅していないので、礼拝される象徴的存在であろうと推定されます。

いずれにしても、実生活上の何に使われたか、はっきり判明しないということは、精神文化的に使用されたに違いありません。

この石冠は飛騨と新潟に集中的に出土しその残りは富山、長野、秋田、岩手に拡がっています。

これは厳寒にも酷暑にもならず、涼しくて心地よく不快指数が上がらず住みやすい裏日本の北陸、東北地方へと飛騨から広がったことを示すものです。

その頃は、飛騨に厳寒と大雪が来襲しても他の地はまだ雪も降らず、涼しい土地であり、春夏秋に収穫し、冬は静かに思索したり礼拝したり、

精神を一点に集中して生命エネルギーを体外に波及して、透視、予言などが楽にできるような人も出てくる可能性が高かったと推定されます。

(山本健造著「明らかにされた神武以前」P251引用)

さらに御物石(ぎょぶついし)で証明された飛騨の先進性

御物石から観る日本人の精神性

上の2点が信仰的な遺物と考えられる独鋸石。 下の2点は皇室に献上されたので御物石器という。 (『飛騨国府シンポジウム、古代の飛騨、 その先進性を問う』より転記。) 山本健造著「明らかにされた神武以前」P253引用

石冠のほかに凹型の御物石(ぎょぶついし)というのがあります。

この石も直接の衣食住に関係がなく、精神文化的なものと推定されます。
石の中ほどが凹型にくぼんでいるのが特色です。

先祖を拝むときに花や肴をお供えし、そのくぼんだ所に据えたのでないかとも思われます。

枕にしたのでないか?
という人もありますが、そのくぼみはとても頭が入るほどの大きさはないのです。

この石が全国から144点出土していますが、そのうち飛騨からは74点出土しているのです。

美濃からは22点であり合計すると岐阜県からは96点も出ています。
残りの48点は岐阜県の周辺の温暖地から出ているのです。

縄文後期の石冠よりかなり後に温度が再び下降した頃に御物石が温暖地の美濃、滋賀、富山、近畿方面に下山したと推定されます。

説明したごとく、石冠(せきかん)と御物石(ぎょぶついし)は二つとも揃って飛騨を中心に全国の半数が出土しています。

これは一万年近い以前より二千数百年以前までの縄文時代は温度が今より7度ほど高く飛騨は日本一の住みよい所であり高度の精神文化の華が開いていたと推定され日本の古代神道の源流は飛騨であった有力な確証です。

(山本健造著「明らかにされた神武以前」P253引用)

 天孫降臨(ヤマノフモトへ民族大移動)裏付けとなる気候の変化

天孫降臨を証明する気候変化

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今から3万2千7百年前頃から飛騨を中心として日本列島に気候の変化が起こり寒冷化が進み、

8,590年前頃から温暖化が始って西日本は湿気と暖気に包まれ、東北は比較的乾燥し涼冷であり、飛騨高地は涼しく雪も降らず縄文人が住みやすく東北地方に広がりましたが、

今から2,500百年前頃から気温の変化が激しくなり雪が降り住みにくくなってきた事が科学的に証明されてきました。

角川選書の『日本人新起源論』(埴原和郎編)は良い本です。
その134頁に、安田喜憲氏の研究された貴重な表が出ています。
上記に表の一部を拝借して掲げます。

この表は福井県三方湖底の泥をとり、その中に植物の花粉が混入されている状態を調査されたものです。

花粉は化学的に非常に強い膜を持っていて湖底に堆積されると何万年でも残るのです。

その花粉の種類と堆積の状態で昔の植物の繁茂した時期や種類がわかり気候の変化の状態が正確にわかるのです。

ツガ、マキ、モミ、ヤマモモその他が8,550年前に急に減少し、スギ、ブナ、ヒノキ等が急に増加して温暖化を示します。

6,000年前頃から暖気好みのアカガシ、シイノキが増加していますが、寒気が強くなると二千数百年前から急減します。

これに反して寒気好みの二葉マツが少し遅れて繁茂しています。

これは2,500年前頃に日本列島に気候の変化が激しく飛騨高地は深い雪に埋まるようになって、暖地への集団移動が開始される原因になったと推定されます。

これが飛騨政権が暖かい大和地方に移動する原因の一つであったと思います。

(山本健造著「日本起源の謎を解く」P281引用)

石冠より数百年後の縄文晩期の末葉頃、日本列島の気温が再び下がり飛騨に大雪と厳寒が迫り、それに耐えかねて、凹型の石に先祖を奉じて、温暖地に集団移動したのです。

生活道具でなくして精神生活に使われた石器の全国の半数が飛騨から出土するということは、いかに飛騨の古代人の精神文化が他に比して進んでいたかを証明しているのです。

その後弥生中期頃に大雪に耐え切れず、国内の情勢もありヤマノフモトに下山する頃には石の代わりに金属の鏡に先祖を祀りこめて集団下山したのが古事記の天孫降臨の伝説になったのです。

(山本健造著「明らかにされた神武以前」P255引用)

まとめ

  • 天孫降臨とは、飛騨(やまと)民族が高地から下山した事であり、神話化し天上界と地上階に古事記はすり替えました。
  • 蔑視の意味である「倭(わ)」「奴(な)」を、賢いヤマト(飛騨)民族は、「ワ」の音は、そのままにして「和」の字とすりかえそして美称の「大」を冠して「大和」と書いて、読みは「大和(ヤマト)」としました。
  • 「神武東征」は、古事記の嘘で「御帰還」である。
  • 饒速日命(にぎはやひのみこと)とは、邇邇芸命(ににぎのみこと)の兄で、いち早くヤマノフモト(大和)に降りて近畿を開拓し弟が筑紫平定から帰還される事を待っていた人物
  • 長髄彦(ながすねひこ)は、殺した事にして東北へ逃がした、津軽半島に「大和説」があることで口碑が正しい事が解る。
  • 古事記を神話化したりおとぎ話化することの意味は、飛騨(大和)民族を良く思っていない人達の力が古事記に反映されているとしか思えない。

氏神様は宗教ではない、「道徳の象徴」です

郷土を開拓した先祖として感謝と畏敬の念を捧げる氏神様も、宗教でなくて道徳の象徴であります。

日本の国を統一して平和の基礎づけをして下された総本家を敬愛して行くのは、宗教でなくて道徳です。

ですから、国民統合の象徴である天皇を敬愛するのも、大喪に参拝するのも道徳であって宗教でありません。

宗教には教義があって布教活動があり排他性がつきものですが、皇室の儀式や氏神の祭りの儀式には何らの教義もなければ布教活動もなく排他性もなく、明朗で闊達ですがすがしく厳粛なものです。

皇室の儀式や氏神を宗教と考えるところに、宗派宗教家や政党間の摩擦が生じたり、裁判事件まで起こしていると思われます。

一日も早く宗教であると思う誤解を解いて、国民全部がいがみ合うことのない国民道徳を悟るべきであると訴えて止みません。

(山本健造著「明らかにされた神武以前」P335引用)

コメント

  1. 島貫雅之 より:

    「はばき」「こざぐ」懐かしい言葉です。50年くらいまえでしょうか、祖父が山に行くとき「はばぎつけて」・くさむらは「こざぐ」、「畑こざぐな」とか言われたのを思いだします。今は死語です。でも大雪のときは「ゆきばこざいて」とつかいますか・・・。
     申しおくれましたが、当地は山形県南陽市大橋です。
     先祖が当地にいつ来たかはわかりません。言い伝えでは、伊達氏が入部する前より土着していたとも言われています。鍛冶職人集落だったようです。神社の社名は畿内神社、全国に2か所しか確認していません。1社は当地で鍛冶集団らしく金山彦の命。もう1社は隣の地区でお稲荷さまです。はばき等の言葉が当地から飛騨に行く訳はなく、おっしゃるよう、飛騨から民族とともにながれてきたのが正しい説と思いました。

    • 山下住 より:

      島貫雅之様へ

      はじめまして、コメントありがとうございます。
      >「はばき」「こざぐ」懐かしい言葉です。
      そうですか。
      「はばき」は飛騨語ですので、島貫さんが思った通り「飛騨から民族とともにながれてきたのが正しい説」同感です。
      山本健造氏は、古事記が正しいか飛騨の口碑が正しいかを全国を調査して、飛騨の口碑が正しいと確信したと著書に書かれていました。
      島貫さんの証言は、山本健造氏の調査を裏付ける証言であると思います。
      このブログに全国から、証言が集まって来ることを願っております。

      ブログの中にもありますが、「石冠」が飛騨を中心に東北へ広がって発見されています。
      山本健造氏は「日本起源の謎を解く」p186に『飛騨から縄文晩期頃に降りて行った人々でなかったか、と私は思います。』と書いています。

      また、「飛騨の口碑」に第十五代 淡上方様の御遺言では、『初代大淡上方様(約2500年前)以前に飛騨から降りて行った人々・・省略・・みな飛騨で生まれて、日本中に広がっていった者の子孫で、皆同じお血筋であるのだから、尊いまとめ役を受け継ぎまた子孫に受け継がせ、尊く仲良くまとまってきた証の皇統命(すめらみこと)のお血筋を守ってもらいたいんじゃ。
      日本人の縦の軸(時間線)の証として、世の中が大きく変わって、国を治める政治の形が変わったり世の中のあり方が変わっても、飛騨で生まれて広がっていった日本の者、また日本の土地に住む者、みな皇統命(すめらみこと)のお血筋を守り続けてもらいたい。
      この上方家の尊い歴史を決して忘れることなく、世の中が大きく変わってくるまでに日本中の皆に知らせよと、御先祖の方々からのお願いなのじゃ。
      』と伝わっています。

      「飛騨の口碑」からも、島貫さんが思った通り「飛騨から民族とともにながれてきたのが正しい説」となると思います。

      どうか、日本の国造りをされた建国の功労者「天孫」の正しい歴史が日本中に拡がり大勢の方々が、伊勢神宮にお詣りしたら天孫宮にもお詣りして頂きたいとおもいます。
      今の、天孫宮は建国の功労者をお祀りするのには小さすぎると感じています。
      もっと、大きな立派な天孫宮を創建して日本中の人がお詣りできれば、日本起源と日本ルーツの歴史が広がり、エッタに落とされた天孫の方々の名誉回復につながると思っています。
      どうか、ご協力をお願いいたします。
      それでは、なお一層のご健勝をお祈り申しあげます