古事記の国譲りとは出雲を飛騨に『お返しした』が正しい

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出雲の国譲りの真相

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

日本人のルーツや日本の起源が書かれている古事記に「出雲の国譲り」が書かれています。

古事記を読んだ多くの日本人は、
出雲は高天原に国を譲った」と思っていますが、
本当は「出雲は高天原(飛騨政権)にお返しした」が本当であると言う根拠を

『暴かれた古代史 二千年の涙』原著=山本健造 著者=山本貴美子(2010)
福来出版、そのダイジェスト版として
『裏古事記 ねじれねじれて二千年』があります。

普通に古事記を読むと、「出雲の国譲り」の背景を説明するために「大国主命(おおくにぬしのみこと)の国作り」の話があってまるでおとぎ話化されて何を伝えようと書かれたのか、フィクションかノンフィクションなのか、ワザとボカされて解りにくく書かれています。

これは、史実を四方八方丸くおさめるためだと慶応義塾大学講師の竹田常泰著(2013)「古事記完全講義」学研に書いています。

国を譲った側も、譲られた側も両方が納得する歴史書を書かなければならなかった。
これは、大事業ですよ。
そして、たしかに出雲も南九州も熱田も大和も、みんな「ふむふむ」と大方納得する歴史書になったんです。

今回は、山本健造氏が飛騨に口碑として伝わる日本人のルーツを全国実地調査して解った真実、”出雲の国譲り”は”出雲は飛騨にお返しした”が正しいという事を紹介したいと思います。

詳しく知りたい人は、
『明らかにされた神武以前』『暴かれた古代史』『日本のルーツ飛騨』
を読んで頂きたいと思います。

  • 高天原(飛騨政権)と出雲政権の関係が険悪となった理由
  • 若彦の反逆と誅殺(ちゅうさつ)『飛騨まで響いた泣き声』
  • 実地調査で解った、出雲は飛騨にお返しし、大国主命は幽閉されるも飛騨の温情を受けた事が神事として残っている

 高天原(飛騨政権)と出雲政権の関係が険悪となった理由

大国主命の浮気

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

ヒルメムチ命(天照大神)と素戔嗚命(スサノオのみこと)の契約(うけい)
では、高天原(飛騨)と出雲政権とが末永く平和に栄えるためにと言う気持ちから

ヒルメムチ命(天照大神)の長女多紀理姫(たぎりひめ)を大国主命(おおくにぬしのみこと)の本妻として出雲に嫁いだのです。

また、ヒルメムチ命(天照大神)の息子熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)を素戔嗚命(スサノオのみこと)の娘の婿にしたのです。

しばらくの間は幸福な日々が続き、多紀理姫と大国主命の間には阿遅志貴命(あじすきのみこと・別名=加茂命かものみこと)・下照姫(したてるひめ)の二人の子供が生まれました。

ところが、大国主命は子供が生まれた頃から多紀理姫や子供が待つ家に寄り付かなくなったのです。

その理由が、大国主命はそれはそれは美男子で政略のためと称して、あっちこっちの豪族の娘に子供を産ませていたのです。

そして、正妻である多紀理姫をさしおき、須勢理姫(すせりひめ)を正妻にすると言い出したから父親の素戔嗚命(スサノオのみこと)が、猛烈に怒ったのです。

素戔嗚命は
「高天原(飛騨)のヒルメムチ命(天照大神)との約束を破る訳にはいかないから絶対に許さぬ」と猛反対したが、大国主命は須勢理姫(すせりひめ)を連れて逃げ出してしまった。

どんなに言い聞かせても父親である素戔嗚命(スサノオのみこと)のいう事を聞かず、どうにもならずとうとう素戔嗚命があきらめてしまったと言う史実を、

古事記では『蛇の室(むろ)とて部屋一杯蛇のむらがっている所に寝るように』とか『ムカデとハチとの室に入れられた』などの話でボカシているのです。

多紀理姫の悲しい蒸発と熊野久須毘命の突然死

大国主命の正妻タギリ姫

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

ヒルメムチ命の息子は素戔嗚命の娘の婿として出雲の熊野へ行かれたので、熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)と申したが突然に原因不明の死を遂げられ、どうも不思議だと思っている所へ、大国主命の浮気が発覚。

正妻である多紀理姫は、熊野久須毘命が崖から落ちて死んだというのも怪しいと感じ、このことを早く母親のヒルメムチ命(天照大神)に伝えねばならないと侍女を連れて大国主命のもとから飛び出してしまったのです。

二人の子供、阿遅志貴命(あじすきのみこと・別名=加茂命かものみこと)と下照姫(したてるひめ)は出雲に残しました。

『古事記』では、大国主命が六代も前の屋島士奴美神(やしましぬみのかみ)の妹の須勢理姫(すせりひめ)と結婚することになりますが、これでは全然時代が合っていません。

古事記』には、あちこちに、特有のボカシが入り込んでいて、狐に化かされてしまうのです。

事件がおこってから七百年以上たって、『古事記』に書いたのだから無理もないのです。
ワザとボカシていることが後に解った

須勢理姫も大国主命も、母こそ違うけれどどちらも素戔嗚命の子なのです。

大国主命の女たらしについて『古事記』では、

「ここに神の子と申す少女があります。その神の子と申すわけは、三島の湟咋(みぞくい)という者に、勢夜陀多良姫(せやだたらひめ)という容貌(きりょう)秀れた娘がありましたが、三輪の大物主神(大国主命)が此を見感(みそ)めて、娘が厠(かわや)に入って居る時、朱塗の矢に化って、その厠(かわや)の下の溝から飛び入って、娘を突かれたので、娘は驚きあわてて逃げ走った。

そして、その矢を自分の部屋に持ち還って置いたが、矢はたちまちに立派な男に化って、遂に娘との間に一人の美人が生まれた。
その名は多々良伊須須気依姫(たたらいすけよりひめ)と申す。
右の次第で、此の美人を神の子と謂っています。云々。」

大国主命から『古事記』を書くころまでに七百年以上もたっているのに、こんな破廉恥な行為をしたと伝えられるほどに、

大国主命は女好きであり、次々と多くの娘を妻にして子を生ませても、たいしてそれをとがめることもなく、豪族を戦争しないで手なづけるためだから仕方ないと理由づけて、それを正当化していたと思われます。

若彦の反逆と誅殺(ちゅうさつ)『飛騨まで響いた泣き声』

若彦の反逆

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

高天原(飛騨政権)と出雲政権が末永く平和に栄えるようにと、大国主命と多紀理姫を政略結婚させ

「将来は多紀理姫の子であり、飛騨政権の孫である阿遅志貴命(あじすきのみこと・別名=加茂命かものみこと)が出雲政権を担う」

というヒルメムチ命(天照大神)と素戔嗚命(スサノオのみこと)の約束が大国主命の浮気によって破られたのです。

飛騨政権への裏切りが決定的になった今、このままほうっておくと飛騨政権と出雲政権は戦争(いくさ)にまで発展しかねないと考えました。

そこで、多紀理姫の兄の菩比命(ほひのみこと)を出雲に派遣しましたが3年経っても帰ってきませんでした。

大国主命は、あちこちの女を渡り歩き飛騨の使いである菩比命(ほひのみこと)を避けていたのです。

高天原(飛騨政権)では、3年たっても菩比命(ほひのみこと)が帰ってこないので、国玉命(くにたまのみこと)の子、若彦(わかひこ)を出雲に派遣することになるのです。

ところが若彦(わかひこ)は、行ったきり8年たっても帰ってこないのです。
若彦には、妻子がいてさぞ家族は心配されたことと思います。

高天原(飛騨政権)ではみんなで相談し、今度は高木命(たかぎのみこと)の娘で雉名鳴女(きじななきめ)に

「出雲の様子、菩比命や若彦の様子をこっそり調べよ」と出雲に派遣しました。

ところが、出雲に着いた雉名鳴女(きじななきめ)が何者かによって射殺されてしまう事件が起きました。

雉名鳴女と共に行った者が雉名鳴女を殺した矢を高天原(飛騨政権)へ持ち帰ってきました。

その矢を調べると、それはかつて、若彦が出雲へ使者として下った時、高木命が若彦に与えた矢であったのです。

若彦の反逆が発覚し、直ちに高天原(飛騨政権)から「反逆者若彦征伐」の密使が送られ若彦命は寝ている所を射殺されてしまいました。

若彦の射殺

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

若彦は飛騨から重大な命令を受けて出雲に行ったにも関わらず、同じ命令を受けてすでに出雲へ行った菩比命(ほひのみこと)に飛騨からの命令を話すことをせず、月日のみ流れました。

そして、若彦は出雲に妻子がいるのに多紀理姫(たぎりひめ)が出雲に残した娘、下照姫(したてるひめ)が美しく成長したので、そしらぬ顔で下照姫と結婚し幸せに暮らしていたのです。

そんなある日、若彦が突然何者かに殺され驚き悲しんだ下照姫は、兄の阿遅志貴命と共に、母親の多紀理姫や祖母ヒルメムチ命、若彦の父母や兄弟のいる高天原(飛騨)へ若彦の遺品を持って向かったのです。

国譲り事件の発端は、大国主命が天照大神の娘多紀理姫(タキリヒメ)を正妻にしておきながら、須勢理姫(スセリヒメ)を正妻にして下照姫や阿遅志貴命(アジスキノミコト)をカモにしたことです。
カモとは古代のママコと言う意味で、不幸な悲しい運命の子という代名詞だったのです。

山本健造著「明らかにされた神武以前」福来出版 P174から引用

兄(阿遅志貴命)と妹(下照姫)の悲しい旅路

兄妹の悲しい旅路

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

「反逆者若彦征伐」の真相を知らず若彦の遺品を持って下照姫と兄の阿遅志貴命(あじすきのみこと・別名=加茂命かものみこと)は、高天原(飛騨)の入り口である美濃(みの)まで来て若彦の妹が嫁いでいる親戚に立ち寄りました。

そこで初めて
「若彦は飛騨の使命を果たさず、さらに飛騨の使者雉名鳴女(きじななきめ)を殺したために征伐された」事を聞きさらに、

自分たちも若彦に騙されていた事を知り、驚き呆れ腰をぬかさんばかりでした。

知らなかったとはいえ、反逆者の妻や兄では高天原(飛騨)に入ることもできず、やむを得ず若彦の父母にのみこっそり知らせて、美濃で喪屋(もや)を作り葬式の準備をしました。

若彦の父の国玉命(くにたまのみこと)は新城(あらき=現在の国府町名張一宮と推定される)に住んでおり、葬式の知らせを受けて、若彦の母や妻子を連れて美濃にやって来ました。

高天原(飛騨)まで響いたなき声

若彦の喪屋

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

飛騨路の入り口の美濃で若彦の本妻と下照姫が出逢ました。

本妻は夫若彦の死と、美しい下照姫を妻にしていたことを嘆き悲しみ、下照姫は若彦に本妻や子供がいたことを知って夫の裏切りを嘆き、

兄の阿遅志貴命は妹が騙されていたことを残念がって泣き、そして若彦の父母は、恥さらしの我が子の死を恥じて泣いたのです。

とにかく思いはそれぞれ違いますが泣くだけの葬式でした。
その葬式をした場所が喪山(もやま)として現在も美濃に残っています。

『古事記』には、若彦の本妻が阿遅志貴命(あじすきのみこと・別名=加茂命かものみこと)の顔が若彦にそっくりであったので

「生きていたの」と抱きついたら、阿遅志貴命が「死人に間違えられたのはもってのほかだ」

と怒って喪屋の縄を斬り蹴り倒したので若彦の父母、本妻、子供、皆が亡き叫び、高天原へその声が届いたと書かれています。

『古事記』にいう高天原は飛騨であるとは書かれていませんが、飛騨へ入る入り口の美濃で葬式をして、その様子は飛騨に筒抜けであったのです。

史実として飛騨に口碑として伝わる日本人のルーツは、古事記よりも現実的であり、いつまでも平和に皆が暮らすにはどうしたらよいかと考えていた日本の民族性が現れていると思います。

古事記の雉名鳴女は飛騨古川の娘で、実在の人物である

雉名鳴女を祀る高田神社

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

「日本のルーツ飛騨」福来出版では、若彦に射殺された雉名鳴女(きじななきめ)は、現在の古川町太江(たいえ)の高田(高魂たかだま)神社の場所に住んでいた高木命(たかぎのみこと)の娘です。

ヒルメムチ命(天照大神)の後継者の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の所へ嫁にやり、ヒルメムチ命の大事な相談役をされていたのです。

飛騨を治める皇統命(すめらみこと)やその幹部は、一番危険な仕事は自らまたは自分の子や孫に与えて、多くのひとの幸福を考えるという素晴らしい徳治政治がなされていたのです。

現在、高田神社には雉の姿を石に刻んで
「雉名鳴女(きじななきめ)の霊を慰めるため、古来よりこの山の雉は捕えないと誓って守り続けている」
と書かれた碑がたっています。

実地調査で解った、出雲は飛騨にお返しし、大国主命は幽閉されるも飛騨の温情を受けた事が神事として残っている

大国主は出雲を飛騨へ返す

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「裏古事記 ねじれねじれて二千年」福来出版より

縁談のもつれを解決するために出雲へ送った天照大神の息子の菩比命(ほひのみこと)が3年経っても帰らないために次は若彦を派遣しましたが飛騨に反逆し征伐されました。

飛騨では筑紫平定を急がねばならず、その前に出雲と決着をつけておく必要があるので、最後にやむなく大軍を出雲へ送ったのです。

出雲にはすでに天照大神の息子の菩比命が行ってますから、飛騨政権は菩比命を総大将にして交渉は浜辺で行われました。

交渉の最中に大国主命の息子で暴れ者のタケミナカタが戦を仕掛けてきたので飛騨の軍隊が応戦すると出雲軍はたちまち負けて散ってしまいました。

出雲軍が散ってしまい、残された大国主命と事代主命(ことしろぬしのみこと)は出雲の統治権を返上する以外に生きる道がないのでした。

こうして大国主命は飛騨からお預かりして統治していた意宇国(出雲)をここにおかえししたのです。

菩比命(ほひのみこと)は、
「天照大神は、後々の日本のために国を一つにまとめねばならないと考えておられる」という事や天照大神の御心を切々と大国主命と事代主命に話しました。
さすがの大国主命も天照大神の偉大さをはじめて知りました。

事代主命も、後継者は本来多紀理姫(たぎりひめ)の子である阿遅志貴命(あじすきのみこと・別名=加茂命かものみこと)であり、自分は「辞退すべきであった」事をまじまじと思ったのです。

たとえ大国主命が女道楽をしても正妻の子の阿遅志貴命(あじすきのみこと・別名=加茂命かものみこと)さえ後継者にしていれば自分は引退して阿遅志貴命に統治権を譲ればそれで一件落着したのです。

国をおかえしせねばならぬような大事には至らなかったのです。

ここにきて大国主命は意宇国(出雲)の統治者としてのわが身の不徳を初めて恥じたのです。

交渉は穏やかに進められ
「出雲を飛騨におかえしし大国主命と事代主命は幽閉される」
「天照大神の娘多紀理姫の妹二人の縁談は約束どおりに進める」
と決まりました。

飛騨王朝は天照大神の息子の熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)が出雲で殺された事はあえて問題にしなかったのです。

ここで出来ぬ堪忍をして、大変寛大な処置を取られたのです。
こうして国をお返しする交渉は円満に落着しました。

『裏古事記 ねじれねじれて二千年』福来出版より引用

筆者は『暴かれた古代史』をまとめているとき『出雲大社由緒略記』に「オオクニヌシは国土を皇孫におかえしになり」と書かれているのを見てはじめて気がついたのです。

出雲の意宇国はもともと飛騨国の一部であったのです。
恐ろしいものは先入観です。

「国おかえし」を「国譲り」と思い込まされていたのです。
「譲る、奉る」とは、自分のものを譲り、自分のものを奉るのです。

また「おかえし」という言葉は借りていたもの、お預かりしていたものを、元の持ち主にお返しした、奉還したのです。

本来の所有者が全く異なるのです。
出雲は高天原に国を「譲った」ということが定説化しているのです。

この逆さまの思い込みが古代史を狂わせる原点となっていたのです。

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子
『裏古事記 ねじれねじれて二千年』福来出版より引用

出雲大社由緒略記

出雲大社由緒略記 昭和53年9月1日 改訂27版発行

出雲大社由緒略記

出雲大社由緒略記 平成3年12月1日 改訂35版発行

神事に残る別れの宴、飛騨の温情

飛騨が大軍を率いて出雲へ行った時、オオクニヌシが三穂之崎にいるコトシロヌシに早船を出して急ぎ知らせました。

その様子が諸手船神事(もとたぶねしんじ)としてコトシロヌシを祀る美保神社(みほじんじゃ)に伝えられています。

同神社にさらに青柴垣神事(あおふしがきしんじ)が伝えられています。

これは「二艘(にそう)の舟を並んで浮かべ船上には幕で覆われた三畳ほどの囲いの中に頭人と呼ばれる人が妻、子供、神主、巫女たちと舟の囲いの中へ入って神事が行われ、終わると舟から顔を隠して降りてくる」というものです。

これはいったい何を意味しているのでしょうか。

これは「出雲を飛騨に返し、オオクニヌシとコトシロヌシは幽閉される」
ことに決まり、夫婦、親子がもう二度と会うことができないので、最後の別れをするために、船上の一角を幕で囲って最後のお別れをしたのです。
飛騨の温情であったのです。

オオクニヌシ、コトシロヌシ夫婦と親子に最後の別れを告げさせて陸へ上がるとき、誰かわからないように変装し顔を隠して人前で恥をかかせぬようにしてやった飛騨の配慮なのです。

その時の様子が神事となって残り、今でも舟から降りてくる巫女が顔を隠しているのです。

こうして、オオクニヌシは、飛騨の大軍が守るなかを幽閉所はすぐに出来ないので仮幽閉所へ、コトシロヌシは青柴垣(あおふしがき)の幽閉先に送られたのです。

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子
『裏古事記 ねじれねじれて二千年』福来出版より引用

談判が行われた仮小屋を仮幽閉所に、後に『仮の宮』として保存

大国主は幽閉されたが真実

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「裏古事記 ねじれねじれて二千年」福来出版より

国おかえしの談判は稲佐(いなさ)の浜に仮の小屋を作って行われました。

その小屋がオオクニヌシの幽閉所ができるまで仮幽閉所になり、さらにこの小屋を「仮の宮」として残したのです。

そして先祖の神々の「国おかえしの話合い」の歴史を「神議り」(かむはかり)として神在祭(かみありさい)の神事にして残したのです。

『出雲大社』(千家尊統著)に、陰暦十月の神在祭には全国の神々が出雲に参集するがそのときの神議りの事の行われるのはじつにこのささやかな「仮の宮」である、と書かれています。

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子
『裏古事記 ねじれねじれて二千年』福来出版より引用

 出雲大社に伝える身逃神事(みにげしんじ)

身逃神事でわかる大国主の幽閉

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「裏古事記 ねじれねじれて二千年」福来出版より

この身逃神事はクシヤタマ神を祭神とする湊社(みなとのやしろ)で行われる祭りであったと思われる。
(『出雲大社』)

クシヤタマは幽閉されたオオクニヌシを見張りながらオオクニヌシの料理方として飛騨から行った人です。

この神事は前日に道の下見をしておいて、夜中に神幸の途中もし人に出会うと大社に戻り出直しをする、大社町内の人もこの夜はできるだけはやくから門戸を閉ざして謹んで外出しない、神幸祭ともいう。

このオオクニヌシの神幸の神事は、一体何を意味しているのでしょうか。

いよいよ幽閉所が完成したので、仮幽閉所から床の高い幽閉所へオオクニヌシが移された時のようすでないかと思われます。

オオクニヌシを幽閉所に移すために、あらかじめ道の下調べをし、さらにオオクニヌシの姿を他人に見られないように夜中に移動して
人に出会うと出なおしをする」
というほど気を使って移動した飛騨の配慮でした。

それが「身逃神事」となって残されているのではないかと思われます。

こうして出雲はオオクニヌシにかわって天照大神の息子の菩比命(ほひのみこと)が治めることになり、わずかの兵士を見張りに残して大軍は飛騨へ帰っていきました。

飛騨政権はこのすぐ後に筑紫平定という大仕事をひかえているため、大軍を出雲に残すことができなかったのです。

それが10年余りで飛騨の寛大な配慮も空しく出雲につけ入られることになり
二千年にわたって悔いを残す』ことになるのです。

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子
『裏古事記 ねじれねじれて二千年』福来出版より引用

まとめ

  •  古事記では、大国主命が出雲(意宇国)を造ったかの如く書かれているが、出雲はもともと天照大神の先祖の代に親戚が開拓した飛騨国の分家の国であり、最初から飛騨国の一部であった。
    その立場から見れば、大談判のとき「大国主がいま治めている葦原の中ツ国は我が国の天照大神の御子孫の支配になるべき国である。どうだ承知致されるか」と上から目線で言った言葉は当然です。
  • 古事記では、大国主命が「国を譲る代わりに、天ツ神の御子の御殿のような立派な広い家を造ってくれ」と条件をだし「この世界を遠く隔ったあの世から皇運長久(こううんちょうきゅう)を御守り申しましょう」と書かれているが、本当は幽閉された。
    幽閉されたから、逃げる事が出来ないよう、神殿は高く建てられた。
    大国主命の幽閉についてはクシヤタマが料理長をしたことなどとともに飛騨に伝わる口碑にしっかり残されている。
  • 慶応義塾大学講師の竹田常泰著(2014)「現代語古事記」学研 P93には、「しらす=統治する」と「うしはく=領有する」の違いを解説しつつ出雲は、大国主命が統治する国ではないと古事記に書かれているというのは、飛騨に伝わる口碑と一致するところです。

コメント

  1. グリ より:

    このサイトを大変興味深く拝読し、古事記の謎の一部が解けました。
    日本では、仏教派の蘇我氏が滅亡したにもかかわらず、その後、仏教が大幅に取り入れられ、明治までは神仏習合でした。それにもかかわらず、神社は今でも大化の改新X年などと祝ったりしています。しかし、大化の改新がシラギ神崇拝教派の排除であったたと考えれば納得できます。
    一方、京都に出雲大神宮というのがあり、後で、島根県の出雲(大社)に移されたようですが、口碑における国譲り~大国主命・事代主の幽閉~シラギ神~出雲族は、どちらで起こったのでしょうか?ご教示いただければ幸いです。

    • 山下住 より:

      グリ様へ

      はじめまして、コメントありがとうございます。
      >このサイトを大変興味深く拝読し、古事記の謎の一部が解けました。
      私にとって嬉しいお言葉、ありがとうございます。

      私は、京都に出雲大神宮があったという事を知らず、グリさんに教えていただいた次第です。
      私は、山本健造先生・貴美子先生の著書を読んだ、一読者に過ぎずグリさんに「ご教示」できるほどの知識は持っていないので、是非本を読んで頂きたいと思います。

      回答になりませんが、
      「国譲り~大国主命・事代主の幽閉」に関しては、『明らかにされた神武以前』と『日本のルーツ飛騨』から主に引用してブログを作りました。
      国譲りと古事記にはありますが、飛騨の口碑では返して貰ったとの事です。
      返して貰うまでの詳しい経緯が口碑として伝わっており、グリさんの知りたい事が分かるかも知れません。
      失礼ながら、
      グリさんの質問の「どちらで起こったのでしょうか?」とは、どこの場所で行われたのか?と言う意味でしょうか。

      「シラギ神~出雲族(出雲教)」に関しては、『暴かれた古代史』『裏古事記 ねじれねじれて二千年』を主に引用してブログを作りました。
      飛騨の口碑が、正しいかどうか全国を調査していたある日、先祖が飛騨から降りて来たという言い伝えがある大和の飛騨町が被差別部落に落とされている事を
      知った山本両先生は、なぜなのかと考えて「そうだ、飛騨を恨んでいたものは出雲だ」と気が付きさらに調査して纏めた本です。

      『暴かれた古代史』『裏古事記 ねじれねじれて二千年』は、口碑ではなく、山本両先生が古代史を調べ全国を調査して「古代史に二つのねじれ」があることに気付き
      その「ねじれ」とはを、詳しく説明した内容です。
      グリさんが研究されている事の参考になると思いますので是非、お勧めします。
      また、著者であり、全国を調査された山本貴美子先生に「日本のルーツ飛騨」の講演依頼されてはどうでしょうか。

      グリさんのお役に立てずに申訳ありません。
      それでは、なお一層のご健勝をお祈り申しあげます。