伊勢神宮はなぜ伊勢なのか?飛騨『天孫宮』もお詣りしましょう

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なぜ伊勢神宮は伊勢にあるのか

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子 「日本のルーツ飛騨」福来出版 引用

伊勢神宮は、なぜ伊勢にあるのか?不思議に思った事はありませんか。

結論を、山本健造原著 山本貴美子著『暴かれた古代史 二千年の涙』から見つけました。

内容を要約すると、
皇位の印である「八咫鏡(やたのかがみ)」を狙うシラギ神崇拝教(後に、出雲教)から命がけで逃げて守り通し、落ち着いた所が伊勢でした。

伊勢には椿大神社の一族や、三〇〇年近い程の昔から先祖が飛騨から降りた人々が大勢住み着いていて天照大神の偉大な徳を知っており、その昔出雲の国おかえしの一連の事件の真相、オオクニヌシの淫乱(いんらん)あだ名の葦原醜男(アシハラシコオ)をよく知っているのです。

八咫鏡」とヤマト姫を命がけで守ってくれる人々が大勢住んでいたのです。トヨスキイリ姫が大和を逃げ出して以来五十余年「八咫鏡」の安住の地は伊勢であったのです。

山本健造原著 山本貴美子著『暴かれた古代史 二千年の涙』引用

追加記事として詳しく
伊勢神宮の外宮とはシラギ神教の見張所だった| 古代被差別部落とは、その4
にまとめましたので、ご覧ください。

今回は、山本健造氏の著書『日本起源のなぞを解く』で、なぜ伊勢神宮は伊勢にあるか?を検証していますのでその内容と、建国の功労者(天孫)がエッタ・穢多・ヒエッタと罵られ被差別部落に落とされている事が全国を調査するうちに解り山本健造氏が「天孫宮」を創建しました内容を紹介していきます。

はじめに
日本人のルーツは、飛騨の淡山(あわやま=乗鞍岳)のふもと丹生池(にゅうのいけ)から”生命”が湧き人間まで進化し国造りや大和(やまと)の開拓を行ったと飛騨に口碑として伝わっていることをブログで紹介してきました。

津田左右吉氏や井上光貞氏は、敗戦の虚無感に乗じて神武九代の抹殺論を「ただそう思う」という理由で論じました。

また、平田篤胤が朝鮮文字(ハングル)をヒントに神代文字を偽作した影響をうけたのか?天日文字(あびるもじ)で書かれた『竹内文書』がでました。

しかし狩野博士により偽作と判明。
文字を記入した神剣や、神石は明治、大正に頼まれて刻んだと言う人が現れる。

『上記(うえつふみ)』には、天孫降臨説がなく出雲神道の影響で書かれている。

『秀真伝(ほつまつたえ)』は、仙台の多賀に高天原があったという物語で天照大神は173万2470歳生きたと記され文字は、母音と子音を組み合わせたもので観念的空想的な色彩が強いのが特徴。

『三笠紀(みかさふみ』は、天照大神を男神としている偽史。

『宮下文書(みやしたふみ)』は、アソヤマ文字で、富士山麓に高天原があったと書いた偽史。

『九鬼文書(くかみふみ)』は、大中臣(オオナカトミ)神字とよばれるもので書き、出雲を高天原としている偽史。

『東日流外三郡誌』は、国を危うくする分裂、反逆精神で書かれた偽書。

但し、長髓彦が東北にアラハバキ王国を築いた事は認めます。
(口碑と一致)

アラハバキとは飛騨では髓(脛=すね)を守るために髓に当てる防具の事です。
飛騨では、柴(しば)や茨(いばら)をどんどん歩み渡ることをアラコザキとも言います。
アラコザキするとき、足に巻くハバキをアラハバキと言いました。

飛騨では脛を守る物をアラハバキと言った

飛騨の人たちは、開拓の為に山野を跋渉(ばっしょう)する時はハバキというものを髓(すね)に巻いたのです

アラハバキは飛騨の古代の人は必ず着用したもので、先祖から伝えられた皮のアラハバキは貴重なもので家宝の如く大事にしていたのです。

私(著者=山本健造氏)の家に伝わっていたものは、しいなの皮で編んだものでした。

このアラハバキは戦争にゆく人の正当防衛精神の象徴であったのです。
そして、長髓彦の遠祖は飛騨の大山祇命である証拠になると確信しています。(山本健造著『日本起源の謎を解く』福来出版P130引用)

アビル文字

上の文字は、1443年朝鮮国王が多数の学者を集めて作らせた文字。左が、平田篤胤の『神字日文伝(かんなひふみつたえ)』はこの文字で書かれている。

山本健造著「日本起源の謎を解く」では、これらを偽作として根拠を論じています。

しかし、山本氏は精神文化が発達し優れた頭脳の日本人が古代、絵文字らしきものは使っていたのではないかと言っています。

サンカ(山窩)民族が絵文字を大正二年頃になっても使用していた事実からみても日本に古代の特殊文字はあったと思います。

(山本健造著「日本起源の謎を解く」福来出版P194引用)

あぶり出し秘密分布表

田中勝也著『サンカ研究』174項引用。東海十五国の炙り出し秘密分布表。

本当の日本建国の歴史が伝わっていないためにとんでもない偽史を言い広められている事は、残念でなりません。

また、建国の功労者に対して申し訳ないと思います。

そこで、山本健造氏は飛騨に伝わっている口碑を科学的(言語学・深層心理学・血液学・地質学・考古学・風俗共通性・気候変動など)に正しいか?

「古事記」や「日本書紀」に照らして観たときの食い違いは、記紀が正しいか?
口碑が正しいか?を実地調査し考察した結果、口碑が正しいと確信しその根拠を
『日本起源の謎を解く』にまとめていますので是非読んでみてください。

飛騨は良いとこ、日本の元(先祖)よ、
伊勢の神さま生まれたところよ。
伊勢に詣(まい)らば、飛騨にも詣(まい)ろう。
飛騨は日本のルーツなり。
(ooba詩集「ルーツ飛騨」から引用)

伊勢神宮灯籠(とうろう)のユダヤ教紋章の謎

伊勢神宮石灯籠にユダヤ紋章

画像クリックで画像元へリンクします

ある医学博士某氏が溜息をつきながら
「私にはどうも納得できないことがあるんだ。伊勢神宮の石燈籠の中に外からはわからないようにユダヤの紋章が刻みこまれているのは不思議だ」と言って、

天照大神はユダヤから来た神だと思う
と声を小さく呟やくように申されました。

最近興味本位の偽書が氾濫しているので、それに毒されておられるのかなあ!
とびっくりしました。

キリスト教を弾圧した家光将軍の頃、踏み絵を踏むことを恐れた者は、遠く東北に逃れて社の扉や石燈籠に、十字や、ユダヤの紋章をこっそり刻んで、

日本の神(祖先)を拝むと見せかけて、心ではイエスを拝んだ「隠れ切支丹」の遺跡が今も遺っていて、それを明治、大正から昭和の初め頃に

「キリストは青森へ逃れて来て、ここで死んだ証拠だ」
と宣伝して嘲笑を浴びたキリスト教宣教師のあった事を話題にして、

伊勢神宮の石燈籠に、こっそりと刻まれたユダヤ教の紋章も「隠れ切支丹」の刻んだものでしょう、と申し上げたが、

それを受けつけぬ程に「日本人の祖先はユダヤ人である」と思い込んでおられる様子でした。

もしも、日本人がユダヤの子孫であるならば日本語の中にユダヤ語(イスラエル語)が多分に混在する筈なのです。

それが全然問題にさえならぬ程に混在していないのです。

(山本健造著『日本起源の謎を解く』福来出版P290引用)

皇室の先祖が外国人だという嘘、言語学から観て有り得ない

山本健造氏は心理学者であり、心理学的な立場から大和(飛騨)民族の言語を考察しています。

くわしくは、「日本起源の謎を解く」を読んでください。
ここでは、簡単に紹介します。

大昔から日抱御霊鎮を行ってきた日本人は瞑想民族です。
自然に内面的で思索的生活に傾くから我と大自然は一体と観るようになり、咄嗟(とっさ)の場合に出てくる言葉は「我」と大自然の現象の名詞です。
次に出てくるのは動詞や述語です(我は山に登る)。

ところが、狩猟生活を主として生活する民族(自然征服型民族)は行動的であり、外界に常に攻撃的、征服的ですから咄嗟(とっさ)の場合には、動詞が先に出て後から名詞が続くようになります(登る、山)。

また、同じ瞑想民族であっても言語組立方式や言語に伴う発音の癖なども異なってくるのです。

皇室用語の語彙(ごい=それぞれで使われる単語の総体)を調べると、他国と違う事がわかります。

皇室の先祖は日本を征服した古代朝鮮人だと思っている妄想家がいますが、皇室用語の語彙が朝鮮語の語彙と一致しませんから明らかに嘘だと解ります。

古代出雲が宗教の形で高天原(飛騨)にしっぺ返しをした

大国主命の神しき光

原著=山本健造/山本貴美子著「裏古事記 ねじれねじれて二千年」福来出版引用

さて、伊勢神宮が、何故に大和(やまと)から移されたか?
について考察してみたいと思います。

『古事記』より、七年程あとに完成された『日本書紀』の方が具体的に詳しく出ているので、それを引用して考察して見ます。

大己貴神(オオナムチ神=大国主命)が独り出雲の海岸をさまよい、吾(われ)と共に天下を治める者はないかと、もの思いにふけっていると、

神(あやし)き光が海を照し、忽然(たちまち)に浮び来る者ありて、
「もし、吾が居なければ汝は国を治めることは出来ぬ」
と申すので、大己貴神(オオナムチ神)が「貴方は誰か」と問えば

「吾は汝の幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)なり」と答えたので
「では今、何処に住みたいか」と問い給うと「吾は日本国の三諸山(みもろのやま)に住みたいと思う」
と答えた。

それで大己貴神(オオナムチ神)は大和の大三輪山(おおみわ山)に宮を造って祀ったのが大三輪の神である。

即ち甘茂君(カモノキミ)、大三輪君(オオミワノキミ)、姫蹈(ヒメタ)タラ五十鈴(イスズ)姫命であり、又、事代主神(コトシロヌシ)が八尋(やひろ)もある大鰐になって、三嶋溝姫(ミシマミゾクヒヒメ)に通って蹈(タ)タラ五十鈴姫命を生んだ。

この姫が神日本磐余彦火火出見天皇(カムヤマトイワレヒコオオデミスメラミコト=神武天皇)の后(きさき)になったと記されています。

(山本健造著『日本起源の謎を解く』福来出版P293引用)

出雲一色に塗りつぶされた奈良の都

奈良の都が出雲一色

原著=山本健造/山本貴美子著「裏古事記 ねじれねじれて二千年」福来出版引用

二千数百年前交通の開かれていない頃に出雲から大和まで大国主命が、自らの魂を俸持(ほうじ)して、お祀りしたというが如き事はある筈もなく、後世の作り話であることは疑うべくもありません。

この文章の書かれたのは七二〇年頃の奈良の都の思想状態を写しているのです。

大国主命が出雲の海岸で光り輝く我の魂をおし戴(いただ)いて、
わざわざ遠い奈良まで来て大三輪山に祀ったという物語が、その頃の奈良にひろがっていたのです。

これは出雲神道が仏教の大黒天に大国主、恵美寿天(エビステン)に事代主(コトシロヌシ)を比定しており、仏教の流布(るふ)と共に出雲神道が日本を席捲(せっけん)していたのでした。

日本中の神は十月には出雲に帰るから神無月(かんなしつき)といわれる程に徹底的にひろがりました。

出雲神道は天孫降臨を否定し、天照大神を素戔鳴命の子にしたり、数代後の子孫にし格下して、皇室の先祖を出雲神道下に入れようとしていました。

その頃は、大和地方の第一級の石上神社は大和地方を開拓した氏神であったのに素戔鳴命が祭神になってしまい、大三輪山にも出雲神道の神が祀りこまれてしまいました。

(山本健造著『日本起源の謎を解く』福来出版P293引用)

神武天皇の妃(きさき)にまつわる艶話(つやばなし)

こんな空気の中で『日本書紀』が(七二〇年)編集されたのだから神武天皇の后は出雲神道では第一の知恵者といわれる事代主命の娘ということになっています。

ところが、七一二年編纂の『古事記』では神武天皇の后は大国主命の娘という事になっているのです。

そして、大国主命が、この娘を孕ませる時の様子が滑稽におかしく、
『古事記』中巻神武天皇の所に記されているので、それを意訳して掲げて見ます。

「三嶋湟咋(ミシマノミズクヒ)の娘で名は勢夜陀多良姫(セヤタタラヒメ)、
その容姿(すがた)が麗美かったので、美和(三輪山)の大物主(大国主)が瞳み惚れして、

その美女の大便に入れる時に、丹塗の矢に化りて、その大便の溝流下より、その美人の富登(陰部)を突きなされたので、その美人は驚いて立ち走り、その矢を水ですすぎ、

その矢を持って寝床に置いたので、その矢は忽ちに麗(うるわ)しき男に成りて、すぐその美人に娶(めあ)いて、生みませる御子の名は富登多多良伊須須岐姫命(ホトタタライススギヒメ)と申す。

この姫の亦名は比売多多良伊須気餘理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)
と申し上げる。

これは富登(陰部)と言う事を悪(にく)みて後に改(か)へた名である。(中略)

伊須気餘理姫の家は狹井河(さいがわ)の上に在った。
神武天皇は伊須気餘理姫(イスケヨリヒメ)の許に幸行(い)でまして一宿寝ましき。(中略)

後にこの姫が宮内に入られた時に天皇は御歌をよみ給うて
「あしはらの、しけこきをやに、すがたたみ、いやさやしきてわがふたりねし」と、
その後三人の男子が生まれ給う、(中略)その末子が皇位を継ぎ給ひき」

あの頃の結婚は自然な姿でなされた事が、ありのままに描かれて興味深いのですが、その中に神武天皇の后が、事代主の娘であったり、大国主の娘であったりはしているが、

どちらも出雲の神の娘になっているのは、奈良時代は、大和(やまと)の都は出雲神道一色に塗り潰されていたからなのです。

カテゴリー『古代被差別部落とは』にくわしくまとめました。

(山本健造著『日本起源の謎を解く』福来出版P293引用)

忘れられた肇国(ちょうこく)の恩人、天照大神(ヒルメムチ)

忘れられた肇国の恩人天照大神

原著=山本健造/山本貴美子著「裏古事記 ねじれねじれて二千年」福来出版引用

その頃、忘れられ疎遠に扱われていたのは皇室の先祖の天照大神であったのです。

天照大神はどうなっていたかを調べますと、
「十代崇神天皇の五年には流行病で多くの民が死に、六年には百姓たちが流離ひ、或いは背版くもの有りて、徳を以て治め難しと、朝早くより夕まで神祇(あまつかみ、くにつかみ)を祀りて祈り給いき。

天照大神、倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)の二神を御殿の内に祀るのは畏れおおくて安からずと、「それ故に天照大神を豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)に託(あずけ)まつりて、倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいむら)に祀り給う」
と『古事記』に記されてあります。

笠縫邑(かさぬいむら)を訪れて昔をしのびますと、他の社と比較して貧弱であり、ここが『古事記』に出ていて国史上有名な笠縫邑かと涙の流れる思いがしました。

肇国の恩人ヒルメムチ(天照大神)の遺跡がなぜこんなに荒れているのかと思えば天照大神を伊勢に御遷宮(ごせんぐう)するまで一時お祀りした所であるから、まあ無理もないのか、とも思いましたが、奈良では昔から天照大神より出雲の神々の方が重んぜられたのです。

(山本健造著『日本起源の謎を解く』福来出版P294引用)

天照大神(ヒルメムチ)を伊勢に遷した意味

垂仁天皇写真

垂仁天皇

垂仁天皇はこのままでは正しい歴史が忘れられてゆく事を心配されたと私は思います。

『日本書紀』垂仁天皇の記録を次に意訳します。
「今、朕世(わがよ)をむかえて、神祇(あまつかみくにつかみ)を祭祀(いわいまつ)ることを怠ることはできない。

三月(やよい)、丁亥朔(ひのといのついたち)。
丙申(ひのえさるのひ=十日)天照大神を豊耜入姫(とよすきいりひめ)より離れまつりて、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に託(あず)けたまふ。

さて、倭姫命は大神を鎮め祀る処(ところ)を探して莵田筱幡(うださだはた)に至る。
更還(またかへ)りて近江国(あふみのくに)に入り。

東美濃(ひがしのかたみの)を廻りて、伊勢国(いせのくに)に到りたまふ。

時に天照大神が倭姫命(やまとひめのみこと)に夢の中で教えて申されるには、
この神の風の吹く伊勢の国は大昔から末永く浪(なみ)が押しよせてや帰えす国である。

傍国(かたくに)の誠によい国である。
この国に居(お)りたいと思うと申された。

それ故に、大神の教のままに、その社を伊勢国に建て給うことになり、齊宮(いわいのみや)を五十鈴(いすず)の川上に建てられた。
これを磯宮(いそのみや)という。
則(すなわ)ち天照大神の始めて天(あめ)より降ります処(ところ)なり」云々。

倭姫(ヤマトヒメ)は鏡を奉じて櫛田川畔(くしだかはん)の飯野に四年間も仮宮(飯野高宮神山神社)を建てて、よい地を探し、更に宮川河畔の地に遷って仮宮(瀧原宮元伊勢の神社)を建てて、あちこちとよい地を探して、最後に五十鈴川の上流に定められたのが今の伊勢神宮であります。

鈴鹿から伊勢のあたりには飛騨の雲の上から下山してきた人々(『古事記』に所謂、天孫族)が多く住みつき皇室の祖先の天照大神を讃迎(さんげい)する情熱が高かったので、神風の吹く地と呼ばれたのであります。

伊勢の国には桑名市(くわなし)に稗田(ひだ)、鈴鹿市に稗田(ひだ)、肥田(ひだ)、多気郡に疋田(ひだ)、飯高などヒダと読める地名を始め、古代の神々(先祖)の名にちなんだ地名がたくさん残っています。

大昔から飛騨の人々は長良川を下った所にある伊勢の地に大勢住み着き、都に出雲神道が盛んになった時も、天照大神の御恩を決して忘れることがなかったのです。

それで倭姫(ヤマトヒメ)は伊勢の地に天照大神をお祀りされたのです。

わかり易い、追加記事を書きましたのでごらんください。
ヤマト姫に「八咫鏡」を託す、以後ヤマト姫の30余年の大逃避行生活が始まった

(山本健造著『日本起源の謎を解く』福来出版P295引用)

大和民族の故郷高天原(飛騨)

飛騨高天原

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子 「日本のルーツ飛騨」福来出版 引用

地球は、八十万年間に大小九回もの氷河時代が襲いましたが、それを過ぎてから次第に気温が上昇し五~三千年前頃は今より七度も高かったと学者は見ています。

その為に平地は蒸し暑く飛騨や、それに続く東北地方の岩手県あたりまでの冷涼地に多くの人々が住みついていたのです。

既にふれましたが祭祀に使われたと想定される石冠は全国に二一九個発見されている中で六十七個は飛騨から出土し、残りは冷涼地から発見されているのでもわかります。

そして、段々と寒くなり雪が降るようになると山から平地に降りるようになったのです。

日本の古代の人々は猟もしたが、草を摘み芋を掘り、稗・粟・蕎麦・豆・麦などを作る頃は、山を焼き耕して、種をまき育てたのです。
山奥の民は米作を求めて下り平地に移り住む時代になるのです。

飛騨の先祖は冷涼の高地に「なぎ畑」(焼き畑)を耕し、森を漏れて入る日光を池に反映させて、それを囲んでうっとりするまで凝視して、大自然に感謝し、先祖の御恩に報いることを誓う「日抱御魂鎮(ひだきのみたましずめ)」の行を百数十年前まで続けていたのです。
(詳細は拙著『明らかにされた神武以前』参照下さい)

日本の先祖は高度の精神文化を持っていましたが寒冷化に伴い下界に民族大移動を行いました。

そしてこの冷涼高地を高天原と呼び、そこをなつかしんで何時までも遥拝したのです。
ですから全国各地にあった六十余の高天原の総本家は飛騨の高地と推定できます。

『古事記』や『日本書紀』に出てくる高天原は飛騨にあったことは、飛騨の口碑や、それを証明する客観的資料から言えることであり拙著『明らかにされた神武以前』の中に詳しく出ていますから是非参考にして頂きたいと思います。

今に息づく古代飛騨を探訪

位山』・・先祖の墓(15代淡上方様、天照大神ここに眠るその下に分家の墓があった)、霊山として古来より拝まれた。

水無神社』・・十五代淡上方様は宮村は狭く、飛騨の中心から少し離れていましたが、地方から連絡に来る人にとっては便利なので、都を宮村に移されました。
現在の神社の処は川の水が石の下をくぐり魚を取るのに都合が良かったのでそこに住まわれました。

荏名(えな)神社』・・イザナミ命が高山へ遊びに来られた時、お生まれになったのがヒルメムチ(天照大神)です。
出産のときの胎盤(えな)を埋めた所が今の荏名神社の辺りで高山市江名子町として地名を留めている。

荒城神社』・・里伝によれば宮谷の奥から降りて荒城郷(吉城郡)を拓かれた神と伝えられています。
その子孫は神社の下流の地に住み縄文の住居址が多数発見されています。
あたゆたの宮と共にもっとも古い宮で、一番良く開けていました。

あたゆた神社』・・飛騨の大昔の人は天をアと云い地をワといい乗鞍をアワ山といったことは既に書きました。
あたゆたのアは天を尊く仰ぐことを意味します。タは何々であった、というように過去を指す時に使いました。
「アタ」とは高い処から下りてこられた尊い血の流れを意味していると推定できます。
ユとは水の温かいことを意味し、豊など、有難い尊いことを意味します。

気多若宮神社』・・(昔は杉本の若宮と言う)高木命の長男がこの地に住み、高田の宮に居られる親や末弟を助け、深川(古川)の開拓に尽され、杉本の若宮と敬われ後に祀られました。
元禄神社除地明細記録以後、出雲神道の気多(けた)を奉じ気多若宮となり主祭神が変りました。

高田神社』・・高木命は山本高木命であり、ここが住まいでした。
高魂命ともいい高魂宮が高田に約ったのです。古代は末子相続制であり末子が高木命の後継者でした。

キジナナキメ

高田神社の境内に出雲で殺されたキジナナキメの霊を慰める為、キジを捕らないと誓った碑が建られている。

大歳神社』・・この辺は沼地が多く、弥生時代に稲を作ったと推定されます。収穫期に、皇統命をお招きしてお米の御飯を奉ったと推定されます。

『栗原神社』・・名の如く栗林があり、栗がなる頃皇統命を招きました。

『国府町』・・奈良時代飛騨の中心になる。都奈良に匹敵する高い文化遺跡多数発掘。

『名張一宮』・・皇統命の近い身内が居られたので格式が高かったと思われます。
若彦の父国玉命の住まいであったと推定され、その為、若彦事件後、下照姫を哀れんで、祭神に祀りました

『高山市』・・江戸時代飛騨の中心になる

『高山』の名の由来・・大淡上方様(おおあわのうわかたさま)の長男山本命(やまのふもとずみのみこと)が丹生川の奥から久久野に下りました。
その分れが、現在の高山市八幡神社の処に住んで怪しい悪者が入らないように守っていました。

その人は、「先祖は高い山におられた尊いお方で、今はその土地を治める人、土の公である」ということで、高山土公命(たかやまつちのきみにみこと)と申し上げ、住まいを、高山土公の宮と呼びました。

代々襲名して、また子孫の偉い人が、鈴鹿へ派遣され、その子孫に猿田彦命が出ます。
最初に高山を治めた人の先祖は、高い山の尊いお方であったのです。

『宮村』・・宮とは尊い御方の住所の意味
≪主なる巡宮の宮≫
山奥にいた人たちもだんだん下ってきて、現在の国府、古川に大勢人が住んでいました。

部落の本家が総本家の皇統命をお招きし皇統命は国府、古川に時には数ケ月も滞在されて地元の人たちと親交を深めながら飛騨をまとめられました。

部落を開いた本家の住まいを宮といい、後に神社となりました。

『安川原』・・天照大神をはじめ幹部が集まって会議をした場所。現在は、高山市に安川通りとして名残を留めている

追記・・ 『丹生川の日抱宮が出雲神道の伊太祁曽神社に変わる』
丹生川村の神社十余社は現在社名が伊太祁曽神社となっていますが、故土田吉左エ門氏、故田中久雄氏のお骨折りによる元禄神社除地明細記録によれば、日抱宮として記録されております。
(『飛騨の神社』参照)
元禄以降、その土地を開いた先祖を祀ってあった日抱宮が、出雲神道の五十猛命(イソタケルノミコト)に変わったのです。

意図的に忘れ去られた建国の功労者天孫を天孫宮に祀った山本健造氏

日本のルーツ、本来もっとも祀られなければならない天孫の方々が祀られている飛騨『天孫宮』です。

問い合わせは、『六次元会』が対応しています。

国造りの功労者、「天孫」

『飛騨天孫宮』写真クリックでストリートビューへ移動

見出しに「意図的に忘れ去られた建国の功労者天孫・・」と書いたのは、
『古事記』や『日本書紀』は高天原は天上界にある如く書いて史実を神話化したり、「出雲の国譲り」ではおとぎ話のような物語で描かれ真実が解らないようになっているから「意図的」としか思えないのです。

飛騨に伝わる口碑では、大国主命は飛騨政権との約束を破ったために出雲を飛騨におかえしさせ、大国主命は逃げられないように高く建てた所に幽閉したのが本当だったのです。

山本健造氏が『天孫宮』を創建した理由は、建国の歴史が忘れられ消されてしまったことを憂いでの事だと思います。

飛騨から降りて建国に骨折られた方々は、本来、建国の天ツ神々として社にお祀りされていたお方なのです。

ところが神々は隠されて、歴史は消され、子孫の天孫はエッタに落とされて、長い年月いわれなきいじめに苦しんでこられたのです。

建国の神々や天孫の大勢の方々をお慰めすべく、鈴木義一先生を中心に『天孫宮』を建てたいと発願しました。

写真は鈴木義一先生をお訪ねしたときのもので『ねじれ古代史』に建設趣意書とともに掲載したものです。

平成十三年のことでした。本書の「まえがきにかえて」で書いたように、『ねじれ古代史』は修正して本書にまとめてあります。

そして平成十七年、念願叶ってささやかですが天ツ神々の故郷の飛騨に『天孫宮』が建ちました。

鈴木先生は天孫宮を見られることなく霊界へ旅だたれましたが、彼の地で喜んでくださっていると思います。

鈴木先生は住吉大社・大阪神社庁参事、伊勢神宮禰宜等の重職を務めあげられたお方です。

神社界の重鎮が「天孫宮創建」の筆頭発起人として立ち上がってくださりさらに御写真まで入れることをお許しくださったことに心から敬意を表し感謝をもうしあげます。

(山本健造=原著/山本貴美子著「暴かれた古代史 二千年の涙」引用)

天孫宮発起人と共に

故・鈴木義一先生(中央)と故・山本健造(右)、著者(左)

(山本健造=原著/山本貴美子著「暴かれた古代史 二千年の涙」福来出版 あとがきにかえてP422引用)

天孫宮御祭神は、建国の功労者であり大神通力者でもある

御祭神は大神通力者

『天孫宮』御祭神は、大神通力者である

日本人の御先祖様は、大昔いつ誰が行ったかが解らないほど日常的に日抱御魂鎮(ひだきのみたましずめ)を行っていました。

現在の言葉に言い直すと「祈りの精神統一」です。

心を鎮めて一点に心を集めると透視や念写ができる事を、福来友吉博士(1869-1952)は証明しました。

大昔、日本の先祖方は日抱御魂鎮を行い病気を念じて治し、透視と連絡網であつまる情報から国の危機を察し対策を立てました。

異民族から侵略されないように、皇統命(すめらみこと=後に天皇)を中心としてひとつにまとまってみんなが対策を遂行し国を護ってきたからこそ今があると思います。

『天孫宮』の御祭神である、『初代大淡上方様(おおあわのうわかたさま)』は誰よりも神通力が優れ皆から敬われていた方です。

饒速日命(にぎはやひのみこと)』と天孫の一族は近畿を開拓した建国の功労者です。

『大荒城神(おおあらきのかみ)』は、五千年前に荒城谷の奥に住んでいた大神通力者です。

『鳥居神(とりいのかみ)』は、五千年前に河合村に住んでいた大神通力者です。

『大笠神(おおがさのかみ)』も、大神通力者です。

『大八島総祖神の神々(おおそうそしんのかみがみ)』とは、大淡上方様が出る前の方々の事です。

大荒城神と鳥居神については、山本貴美子著「一度の人生 いかに生きる」福来出版P109に詳しく書かれていますので是非お読みください。

伊勢神宮をお詣りしたら、是非飛騨の『天孫宮』をお詣りすることをお勧めします。

飛騨の口碑が正しいことは、透視が事実であることからも証明される

透視は事実である

岐阜新聞 2011年5月15日 高山出身の福来友吉博士は透視と念写は事実であることを証明した。

福来友吉博士と念写の発見

福来友吉博士は明治二年飛騨に生まれ、東京帝国大学哲学科を卒業後、同大学院にて変態心理学を研究し文学博士となり、助教授に進まれました。

透視の研究中に、精神力の感光現象(念写)を発見されました。

心の中に思い浮かべている観念をⅩ線も通さぬ鉄の箱に密閉した写真用乾板に焼き付ける実験に成功したことは、唯物万能時代の学者の認めるところとならず、東京帝大助教授を追放され、高野山に入り高野山大学教授を勤めつつ『心霊と神秘世界』その他多数の著書を残し、昭和二十七年に仙台で逝去されました。
念写の研究はまさに神通力の解明です。

福来博士は希有の神通力者三田光一氏とすばらしい実験に成功されましたが、その内容を自然科学や哲学に論証する仕事は未完のまま「仕事を残して逝くは残念」と涙を流され、「福来友吉二世生まる」と三回叫んでこの世を去られました。

念写こそまさに神通力と科学の接点として神通力と科学が、初めて合体して歴史に登場してきたものです。

この念写の研究こそ、心とは何か、魂とは何か、死後に霊が在るか否か、等々の研究の足掛かりとなるものです。

更に哲学、自然科学に大革命を引き起こすものになっていくのです。

(山本健造著1997「六次元弁証法」福来出版P249引用)

透視は事実である

「パワースペース」1994 福昌堂から引用

透視実験をする山本健造

「パワースペース」1994 福昌堂から引用

山本健造紹介
大正元年11月生まれ。16歳にして一心に念じて病を治す方法を発見する。

以来多くの難病者を救う一方、それが郷土の偉人福来友吉博士の発見した念写と同じ原理と悟り、学界から迫害された福来博士の名誉のためにもその解明を決意する。

18歳の昭和6年5月、六次元の原理を発見。
弁証法に発展させ終生研究を続けた。

小学校卒業後、逆境の中で中学講義録や哲学講座を独学し、大学入学資格検定をとり、42歳で日大文学部(哲学専攻)を通信で卒業、小中高校教員免許状を11枚取得、高校倫理社会の教師を最後に38年間の教員生活を退く。

61歳で高野山大学聴講生、62歳で高野山大学院密教科修士課程入学、64歳で文学修士の学位を受く。

69歳の時、飛騨福来心理学研究所を創立し、翌昭和58年3月、問題青少年矯正治療等の長年の教育上の功績により学術研究の財団法人として許可される。
(現在、一般財団法人に移行)昭和62年アメリカの学会に招待され研究発表する。

86歳で哲学の博士号を受く。

平成19年8月、94歳で他界するも、著書多数を残す。

(山本健造著1997「六次元弁証法」福来出版P257引用)

『天孫宮』の向かいには、『福来記念 山本資料館』がある

透視と念写、福来記念館

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『古事記』や『日本書紀』には、大昔から先祖を拝み、みんなで日抱御魂鎮(ひだきのみたましずめ)を行った事が書かれていません。

また、初代大淡上方様、第15代淡上方様、天照大神(ヒルメムチ)の透視によって異民族の侵略を予言し、皇統命(天皇)を中心として皆がひとつにまとまって国を造り、国を護ってきたという史実が解らなくなっています。

透視が事実である以上、飛騨に伝わる口碑は史実として語られて来たことに間違いはないと私は思っています。

時間的透視は、誰にでもできることではない

山本健造氏は、1~10までの数字を書いたカード500枚をバラバラにしてその中から数字が見えていないカード20枚を参加者に選ばせ、百発百中で何枚目のカードでも透視しました。

また時には、3枚目と5枚目を足した数字を答えて見せました。

山本健造氏によると、これは空間的透視でわりと簡単だと言います。

しかし、初代大淡上方様、第15代淡上方様、天照大神(ヒルメムチ)のような近未来の時間的透視は、非常に難しく心が一点の曇りなく清らかな精神状態で日抱御魂鎮(精神統一)を行わないとできない事だと言っています。

世の中に霊能者と名乗る人はいますが、百発百中の透視ができるかどうかが、本物か偽者かを見分ける方法だと山本健造氏は言います。

現在では、超マジックなどで透視をショーとして見せていますが、あくまでもショーであり種はあります。

初代大淡上方様、第15代淡上方様、天照大神(ヒルメムチ)、山本健造氏の透視の種は、心を一点に集め心を清らかにすることでした。

『天孫宮』には、大神通力者の方々が御祭神としてお祀りされていますから、日本最大のパワースポットだと言っていいでしょう。

まとめ

  • 建国の功労者は、飛騨から下山(降臨)した天孫です。
    飛騨政権と出雲政権は、いつまでも仲良くしていきましょうと政略結婚を行っていましたが、大国主命が約束を破ったため、出雲を飛騨にお返ししました。
    そして、大国主命は高く建てられた所に幽閉されました。
    後に大国主命がシラギの女に生ませた多くの子孫が、飛騨政権を逆恨みし宗教でしっぺ返しを図ったのです。
    そのために、本来その土地を開拓した天孫を祀った社は、出雲(古代の出雲の事を言っています)の神々にすり替えられてしまいました。
  • 伊勢の国には桑名市(くわなし)に稗田(ひだ)、鈴鹿市に稗田(ひだ)、肥田(ひだ)、多気郡に疋田(ひだ)、飯高などヒダと読める地名を始め、古代の神々(先祖)の名にちなんだ地名がたくさん残っています。
    大昔から飛騨の人々は長良川を下った所にある伊勢の地に大勢住み着き、都に出雲神道が盛んになった時も、天照大神の御恩を決して忘れることがなかったのです。
    それで倭姫(ヤマトヒメ)は伊勢の地に天照大神をお祀りされたのです。
  • 伊勢神宮をお詣りしましたら、ぜひ建国の功労者、天孫の方々をお祀りしている飛騨『天孫宮』にお詣りしましょう。