日本人のルーツとして、飛騨に伝わっている口碑の天孫降臨とは、
初代大淡上方様(おおあわのうわかたさま)から代々言われた国造りを天孫の方々みんなが行い、国を守ってきた日本古代正史です。
そこには、大和民族の忠誠心があり日本の精神文化が流れています。
古事記は神話化され「おとぎ話化」されているため、日本の起源や日本人のルーツを「なるほどそうだったのか」
と思えるように書かれていません。
古事記を読んだだけでは、なぜわざわざ筑紫(九州)に降臨したのか?
そもそも「天孫」って誰の事を言っているのか?
なぜ、三種の神器を持たせる必要があったのか?
など大事な事がまったく解りません。
飛騨の山奥に代々伝わっていた口碑(日本起源の史実)を、語部翁(かたりべおきな)が山本健造氏に「いつか良い時期に発表してくれよ」と託しました。
託された口碑を山本健造氏は、全国を調査しながら著書『明らかにされた神武以前』『日本のルーツ飛騨』『日本起源の謎を解く』に纏めています。
このブログは、日本人のルーツに関する事や日本の起源に関する事を裏古事記として山本健造氏の著書から紹介してみようと思い作りました。
今回、紹介するテーマは
- 古事記神話でいう「天孫」と裏古事記でいう「天孫」のちがい
- なぜ、筑紫(九州)に降臨したのか?それは、天照大神の夢見によるもの
- 古事記神話の謎、なぜ三種の神器が地上に持ち込まれたか?裏古事記では十種の神器
古事記神話でいう「天孫」と裏古事記でいう「天孫」のちがい
「天孫」とは、誰の事を言っているのかを調べると、慶応義塾大学講師の竹田常泰著「古事記完全講義」学研では、
正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)の子供、つまり天照大神の孫である邇邇芸命(ににぎのみこと)と言っています。
「天孫降臨」の天孫というのは、日の神の孫です。
その天孫が降りてくるから、天孫降臨です。
もし、お父さんの天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が降臨するのであれば「天子降臨」でしょうね。
竹田常泰著「古事記完全講義」学研 P223より引用
裏古事記を読んでいく上ではっきりと”皇統命(すめらみこと)”と”天孫”とを、区別したほうが都合が良いので説明します。
”皇統命”と言う前は、「上方様(うわかたさま)」と言ってみんなから敬われ上方様はみんなの幸せを祈り、先の行く末を考えた人です。
”皇統命”が後に、天皇と呼ばれるようになります。
初代大淡上方様が国造りをする際、忠誠心で国を護り、感謝と真心で国が繁栄するように願い本家と分家をつくりました。
それで、”皇統命”とは「総本家」のことであり”天孫”とは、飛騨から「分家」した一族の事をいいます。
山本健造氏が口碑は正しいか、全国を調査すると飛騨から降臨した「天孫」の人達の子孫が「被差別部落(エッタ)」に落とされている事がだんだん解って驚いたと『暴かれた古代史』に書かれています。
「天孫」とは、飛騨から分家して降りて行った人達で建国の功労者であり、国を護った方々であり、最も尊く敬われ感謝されなければならない方々です。
高天原から降りて来た人々は、日本全体の事を案じ、身内の者を危険な場所に遣わし、自ら進んで国難に当たったので尊敬され、天孫子(あびこ)と呼ばれ、飛騨より国造りのために下山した人を漢字が伝来してからは天孫(てんそん)とよびました。
また、天孫が地方に降臨して地方政権を樹立して、そこを高天原と称したと思われるところが全国に多いようです。
その中の大和(やまと=奈良)にゆき政権を樹立した直系の血統が国をまとめる中心となりましたので「天孫降臨」といえば邇邇芸命(ににぎのみこと)の御降下(ごこうか)だけに使われるようですが、大昔は外の地でも使われたようです。
琵琶湖の「山本山」や「鈴鹿」には天孫降臨の伝説が今尚伝えられています。
(山本健造著『日本起源の謎を解く』福来出版P288から引用)
山本健造著『日本起源の謎と解く』から本家と分家の系図
飛騨に伝わる口碑より、日本の国造りを創められた初代大淡上方様からの系図を見てみましょう。
大淡上方様の長男と次男は、分家して苗字を頂き飛騨の要所を護りました。
末っ子の三男は、大淡上方様の後継者なので苗字がありません。
なぜ、筑紫(九州)に降臨したのか?それは、天照大神の夢見によるもの
日本人の精神文化のルーツは、日抱御魂鎮(ひだきのみたましずめ)であると私は考えています。
古事記には、何故か全く書かれていませんが飛騨に伝わる口碑では肝心な日本精神のルーツです。
いつだれが行ったとなく朝夕、池に映る太陽・月の光をじーっと見つめ心を鎮める。
心が静まると目を閉じて、先祖に感謝し自分の子や孫が幸せになるよう祈りながら心を鎮める事を習慣として行われていました。
現在の言葉でいうなら、「祈りの精神統一」が合致します。
初代大淡上方様は日抱御魂鎮を行い、近い将来の大事を見通ことが出来て良く当たるので、皆から上方様と敬われていたのです。
その上方様が、「このままだと海を渡ってくる者が暴れ黙っていれば侵略されてしまう」と予言されたから国造りを創められました。
初代大淡上方様から言われていた国造りを代々おこない第15代淡上方様のとき、日抱御魂鎮を行っていると海を渡って来る者が暴れている様子を透視され、海辺を固めて連絡網を作るようそして早く立派な船を造るよう飛騨から降りていった天孫の皆に指示しました。
第35代天照大神(ヒルメムチ命)は、初代大淡上方様や15代淡上方様を上回るほど、日抱御魂鎮に長けて近い将来の大事を見通す神通力に優れていました。
ある日、天照大神(ヒルメムチ命)が日抱御魂鎮をなさっていると、筑紫(九州)の国へ外国の人たちが大勢上がってきて、しかも三つのグループがあり、そのうち二つのグループがたがいに争い働かないで、前から住みついているおとなし人達のたくわえている物を奪い、抵抗すれば切り殺すという様子が、ありありと見えてきました。
日抱御魂鎮(夢見)から覚めた天照大神(ヒルメムチ命)は、このまま月日がたてば最後は勝ち残った集団が子孫を増やして、東の方へドンドン攻めて来るだろう。
攻めて来てから防いだのではもう間に合わない。
今のうちに何とかせねばならないと、深く深く国の行く末を案じられたのです。
日本人の民主主義のルーツは二千数百年前から宮村安川原で行われていた
今から約二千二百年(~二千三百年)前、飛騨では素晴らしい民主主義が発達し議会が行われています。
天照大神(ヒルメムチ命)の主人で議長役を務める思兼命(おもいかねのみこと)が飛騨中の幹部をいつもの如く宮村(現在の役場裏の川原)の安川原へ召集して、天照大神の日抱御魂鎮(夢見)の話をしました。
高木命(たかぎのみこと)を始め飛騨の幹部は驚きかつ恐れ、
「今はよいけれど、このまま放っておくと子や孫の時代に大変なことになる」
と大心配を始めたのです。
それもそのはずです。天照大神(ヒルメムチ命)の言われることは今までただの一度もハズれたことがなく、必ず適中したから、誰一人疑う者なく、頭をかかえこんだのです。
天照大神が申されました、
「出雲から帰って来た長女多紀理姫と多岐都姫、市寸島姫の三人を筑紫(九州)に様子を見る為派遣しましょう」と。
集まった人々は皆驚いて「何も皇統命のお姫様方がそのような危険なことをなさらなくても……」と口々に申し上げましたが、
天照大神(ヒルメムチ命)の三人の姫様達に数人の護衛がつき添って、鈴鹿の猿田彦命が筑紫(九州)へ案内されることになりました。
今でこそ日本中便利で安全ですが、二千数百年前飛騨から九州は遠く、危険がいっぱいある命がけの旅行でした。
その命がけの仕事、一番危ない仕事を、天照大神は我が子に申しつけられたのです。
このように高い徳治政治が行われていたのです。
一番あぶない仕事を天照大神の娘たちに行わせ、高い徳治政治を行った
急ぎ三姫を旅立たせられた後、繰り返し宮村の安川原で幹部会議が開かれまた幹部はそれぞれの部落へ帰って報告し相談し、何度も何度も行われました。
この頃さらに、三度目の寒冷化があり飛騨中大雪が降るようになりました。
その上に、外国の者が入ってきたりするようになり、この飛騨は山奥すぎるので、どこか良い場所を見つけて、都を移したらどうだろうかという意見さえ出てきました。
もし移すとすればどこがよいだろうかということになりいろいろ良い場所が上がりましたが、大和(やまと)が一番良かろうということに案がまとまりました。
そして最終的な重大決定は飛騨中の人全員を集めて皆の意見を聞いて行われることになりました。
古事記にたびたび書かれている「神々は天安川原で会議~」は高山の安川原である
あるお天気の良い日、飛騨中の人が高山の安川原に集まりました。
飛騨中の人が集まるには宮村の川原では狭いので、宮川が岩にドーンとぶつかった所に広い広い川原が現在の飛騨高山に広がっていました。
二千数百年前、山国の飛騨では皆が集まる広い場所は川原が一番良かったのです。
何故、安川原というのか?
それは安らかに相談しようということなのです。
喧嘩腰でなく安らかに相談したのです。
後に敬って天がつき天安川原として『古事記』に出てきます。
現在高山市に安川通りとなって名を留めています。
高山の安川原で、思兼命(おもいかねののこと)が議長になって今までのいきさつを報告しました。
さらに良い意見の持ち主は発表させて、全ての人の合意のもとに、大和に都を移すこと、三姫の報告を聞いてから、できるだけ多くの飛騨の男女が筑紫平定に行き、平定後、飛騨まで帰らず、すでに準備を進めている大和に入って都を開くことが決定されたのです。
筑紫へ様子を見に行った三姫が帰って報告を受けてから相談すれば良いのに……
と思えそうですが、ヒルメムチ命(天照大神)の夢見は絶対に間違いないと誰もが信じ切っておりました。
鏡を奉じて第三回目の民族移動、『古事記』の天孫降臨物語の真相
弥生前期頃、第3回目の寒波が訪れて、飛騨王朝は安川原の会議でヤマノフモトに下山することになりました。この頃は金属製の鏡に先祖を祀りこめて下山したのです。
『古事記』に「雲を押し分け、踏み分け」とある天孫降臨事件のことです。
伊勢神宮に祀られている八咫鏡(やたのかがみ)はこの鏡なのです。(原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より)
古事記神話の謎、なぜ三種の神器が地上に持ち込まれたか?裏古事記では十種の神器
古事記に書かれている天孫降臨を読むと、天上界の高天原から邇邇芸命(ににぎのみこと)の一行が地上階である葦原中国(あしはらのなかくつくに)を統治させるために降臨させた。
そのとき、天皇の皇位の証である三種の神器を持たせた。
三種の神器のうち、
鏡は特別で「天照大神の御魂(みたま)として、わが身を拝むように祀りなさい」と仰せになった。
こんな風に古事記は神話化されているので、なぜ天上界から三種の神器が地上階へ持ち込まれたのか?
三種の神器の起源?
などの問題が浮上し意見が纏まっていません。
ところが裏古事記の口碑で伝わっている内容は、兄弟に全く同じ「十種の神器」を渡した、理由は後々の事を考えてのこと。
以下引用
邇々芸命(ににぎのみこと)の兄の饒速日命(にぎはやひのみこと)は、邇邇芸命が筑紫(九州)へ降りられるに先立って、河内の川上の哮峰(いかるがのたけ)の麓に行かれました。
降りられる時、ヒルメムチ命(天照大神)から邇邇芸命と全く同じ天羽羽矢(あまのはばや)と天歩靭(あめのかちゆき)などの十種(とくさ)の神器を授けられたのです。
これは万一筑紫の旅が長くなって子や孫の代になっても、互いにこの神器を示し合うことで先祖が兄弟であることを知り合うための証拠品だったのです。
これは全く良い考えでした。実際筑紫(九州)から帰還されたのは邇邇芸命の孫の狭野命(さぬのみこと=神武天皇)だったので、大和に来られてこの十種の神器を示し合うことで合戦が中止されたのですから。
(原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より)
補足として以下引用
飛騨から楢谷(ならだに)を越えて降ると長良川へ出て、長良川を下ると自然に鈴鹿や伊勢の方にひろがりますので、この地方には飛騨から降った人々が多く住みついたと推定できます。
飛騨の政権が大和に移る事に決まったのはこの頃と思います。
その後、天照大神の孫の饒速日命(にぎはやひのみこと)は大和の開拓にとりかかり、弟の邇邇芸命(ににぎのみこと)は九州を平定して大和に帰還して皇統を継ぐことに決まっていたのです。
九州平定が遅れて狭野命(さぬのみこと=神武天皇)が大和へ帰還したのは約30年も後だったのです。
飛騨は山のふもとから見れば雲の上です。
ですから高原であり、それを敬い尊んで高天原とよんだのです。
(山本健造著『日本起源の謎を解く』福来出版P288から引用)
古事記にワザと書かなかった、天孫の武勇伝「筑紫(九州)平定」とは異民族の侵略を防ぎ国を護った功績、その長い道のりを辿る
天照大神(ヒルメムチ命)の三人の姫様達が筑紫(九州)へ様子を見に行き、なんと8年もかかって無事帰ってこられました。
三姫の報告は、かつての天照大神(ヒルメムチ命)の夢見の通りでした。
その頃には出雲の国は飛騨に御返しされ、他に憂いはなく、かねてから相談して準備が整っていますから、天照大神(ヒルメムチ命)は、後継者の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)に筑紫(九州)出発の御命令を下されました。
天忍穂耳命は
「どうか息子の邇邇芸命(ににぎのみこと)をお使わし下さい」
と申し出られ、若き青年邇々芸命を総大将にして飛騨の若い男女がペアを組んで出発されることになりました。
飛騨中の家々では、家の後取りを残してそれ以外の健康な若い青年達を皆送り出すことになったのです。
今でこそ筑紫(九州)は簡単に行き来できますが、当時は筑紫(九州)へ旅立てば、親子、兄弟、おそらく二度と再び生きて逢えることはないのです。
名残りはつきませんが、出発の日はせまり、ついにその日が来ました。
天照大神は、生きて別れさせねばならぬこの日の来るのを予測しておられたので、国家の末永い発展と平和の為に、まず自ら率先して、我が子に一番危険な任務を負わせられたのです。
いよいよ出発の朝となりました。
立つ人も送る人も、子孫の幸せの為に
「筑紫(九州)を無事平定し、大和へ帰って都を開く」
事を心に決めていました。
皇統命(すめらみこと)の邇邇芸命(ににぎのみこと)を総大将にした一行はひたすら国と子孫の幸せの為にと悲愴(ひそう)な決意で水杯をして飛騨の山の草を踏みわけ、雲を押し分けて降られたのです。
これが『古事記』には天孫降臨と記されています。
飛騨の要所尾崎宮、萩原を通り、馬瀬あたりで一泊して、飛騨街道を美濃に向って下りました。
美濃には親戚が沢山ありますから美濃に泊り、お天気の良い日に、美濃の若い男女も加わり、長良川沿いに下っていくと左手に金華山が見えてきます。
金華山を通過すると岐阜の広い平野が八方に開け道に迷いやすく、その辺りを八岐といったのです。
その八岐の金華山の所へ、かねてから約束してあった鈴鹿の猿田彦命が大勢の家来と共に舟で迎えに来て待っていてくれたのでした。
邇邇芸命の一行は迎えの舟に分乗して、長良川を下り、鈴鹿の地にひとまず上陸されたのです。
さてここで鈴鹿の猿田彦命(さるたひこのみこと)の事をお話しましょう。
昔に遡り、十五代淡上方様が海辺を固めて連絡網を作られた時、この鈴鹿の地に山本高山土公命(やまもとたかやまつちのきみのみこと)を派遣されていました。
山本高山土公命が家来やその家族を引き連れて降り鈴鹿の地に代々住み、猿田彦命はそれから18代目の御方です。
約二百年程たったでしょうか、鈴鹿は人も増え猿田彦命を中心に繁栄していました。
本家の飛騨には代々忠誠を尽くくして、親しく付き合っていたのです。
猿田彦命の祖父に当る御方の兄弟に舟造命(ふなつくりのみこと)という御方が大海へ乗り出しても壊れず更に帆をはって走る立派な舟を完成しておられたのです。
山本高山土公命が飛騨を出る時、淡上方様から
「海辺を見回り、連絡網を作り、子孫を増やして、立派な舟を早く造れ」
と厳命されていたのです。
山本高山土公命の墓は、その事を忘れぬ為舟形になっています。
その願いが猿田彦命の3代前の御方によって成就して鈴鹿は立派な舟を持つ一大勢力を形成していました。
十五代淡上方様が全国に派遣した人々も鈴鹿と同じように栄えて、飛騨を忘れず忠誠を尽くしています。
その国の人々へも連絡が行き若い男女が邇邇芸命(ににぎのみこと)一行に加わる為、集まってきました。
こうして天気の良い日を見計らって、一行は猿田彦命の舟を幾雙も連ねて太平洋を漕ぎ出し難波へ向われたのです。
難波(なにわ)には、約十年も前に飛騨を降り、将来大和に都を開く為、邇邇芸命の兄の饒速日命(にぎはやひのみこと)が家来と共におられます。
更に近畿一帯には、邇邇芸命の伯父さんに当る天津日子根命や従兄弟達その一族が沢山おられるのです。
難波に上陸してしばらく滞在され、若者を新しく加えて、天気の良い日に瀬戸内海の大三島をめざして向って行かれました。
大三島、ここには十五代淡上方様の命によって、約二百年程ほど前に飛騨から来て、子孫を増やして瀬戸内海を牛耳る一大勢力がありました。
淡上方様から命を受けた山下住命(やましたずみのみこと)は家来やその家族を引きつれて、まず少し先に降りた山本一族のいる鈴鹿までゆき、鈴鹿にしばらく滞在してその頃は舟も良くなく命からがら瀬戸内海の大三島にたどり着ついたのです。
その中心の人は山下住命と申し上げ、「おお」という敬称がついて大山下住命となり「下」がとれて大山住命(おおやまずみのみこと)と申し上げ代々襲名していたのです。
その瀬戸内海の大山住命も飛騨を出る時の約束を子々孫々忘れる事なく、飛騨までは遠過ぎて行けなくても常に鈴鹿とは連絡を絶やすことがなかったのです。
瀬戸内海を治める大山住命は難波へ出迎えに来てくれて、邇々芸命一行を大三島へと案内されたのです。
邇邇芸命は大三島で、大山住命の娘木花咲耶姫(このはなさくやひめ)とかねてからの約束通り結婚式を挙げられました。
大三島に滞在されて再度筑紫の状勢を調べたり計画を練って筑紫へ行く時期を待たれたのでした。
一年近く大三島に滞在された邇邇芸命一行は飛騨を立った時よりもはるかに味方が増えて、鈴鹿の猿田彦命の舟と大三島の大山住命の舟が全部そろって筑紫へ向われたのです。
御懐妊なされていた邇邇芸命の后(きさき)、木花咲耶姫は舟の長旅でお疲れになり、舟の中で急に産気づかれ、目的地の舟入まで待てずあわてて近くの刈田(かんだ)の浜に上陸されました。
急いで産屋を造ったのですが、屋根を葺くことが間に合わず産まれてしまいましたので、鵜萱葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と名づけられました。
木花咲耶姫をお守りする人々だけ残して、一行は、舟入へ上陸し、今は陸地になっていますが舟つなぎ岩の大岩に、舟をつながれました。舟入で休み、再び舟で国東半島を廻り五瀬川の河口に着かれました。
ここから川づたいに上っていくと高千穂があります。
その高千穂には、手足が日本人よりヒョロリと長くて少し膚の色が黒いので、天照大神(ヒルメムチ命)の三姫が、コオロギと渾名(あだな)をつけて「コオロギさん」と呼よぶと「オオイ」と返事をする穏やかなおじさん達が住んでおりました。
三姫がコオロギさんと話しをつけて「是非大勢来て守ってもらいたい」と約束がとりつけてありました。
こうして邇邇芸命一行は飛騨を出発され一年以上の月日を費やして無事、高千穂に到着なされたのです。
筑紫は広く、志半ばで邇邇芸命は亡くなりました。
天照大神(ヒルメムチ命)より「平和裡に解決せよ」と命令されている為、三十年余りも経って、邇邇芸命の孫に当たるサヌの命(神武天皇)が大和へ帰還をはたすのです。
(山本健造著「日本起源の謎を解く」福来出版より引用)
その後を受け継いで鵜萱葺不合命(うがやふきあえずのみこと)が平定をほぼ成し遂げられ、後継者のサヌ命(神武天皇)に、
「祖父邇邇芸命の素志を受け継いで飛騨での約束を果す為、大和へ帰り都を開きなさい。急ぎ分家の人々の待つ大和へ向って出発しなさい」
と命じました。
命を受けたサヌ命(神武天皇)は筑紫を兄、御毛沼命(みけぬまのみこと)に任せ、兄の五瀬命(いつせのみこと)と大勢の家来を伴って日向の海岸を出発され、祖父邇邇芸命の通って来られた道をたどって大和に向われました。
途中、邇邇芸命の叔母様に当る三姫方が天照大神(ヒルメムチ命)の命令により博多湾の辺に住んでおられるので(多紀理姫は宗像へ嫁いでおられた)挨拶に立ち寄られて瀬戸内海へと入りました。
まとめ
- 古事記では「天孫」を邇邇芸命(ににぎのみこと)に思わせるような書き方をしています。
しかし、裏古事記では高天原(飛騨)から降りて来た人々のことで、日本全体の事を案じ、身内の者を危険な場所に遣わし、自ら進んで国難に当たったので尊敬され、天孫子(あびこ)と呼ばれ、飛騨より国造りのために下山した人を漢字が伝来してからは天孫(てんそん)とよびました。 - 筑紫(九州)に降臨し平定しなければならない理由は、初代大淡上方様から言われていた「海を渡って来る者が、暴れこのまま何もしなければ侵略されてしまう」と言う日抱御魂鎮中に透視した予言がキッカケです。
はずれた事がない日抱御魂鎮中の予言を代々言い伝えて、海辺を開拓し連絡網を造り、船を造り、国造りを行って筑紫(九州)まで飛騨の大民族移動をしたのです(これが古事記でいう天孫降臨)。
筑紫(九州)では、山の幸族と海の幸族が、侵略中に両勢力が衝突していました。
山の幸族と笠沙族(かささぞく)とは結婚で同盟して海幸族(隼人)を攻めたのです。
それで、海幸族が弱り切ったところを、飛騨族(天孫)が仲裁して平和になり、飛騨族(天孫)と笠沙族が結婚して九州を平和に平定したのです。
武力で平定したのではなく、不戦の統一成就を成し遂げたのです。(「明らかにされた神武以前」参照) - 古事記では、ワザと飛騨(天孫)の忠誠心や建国の功労者として、大きな仕事を成し遂げたことが書かれていません。
史実を神話化しおとぎ話化することで、解らなくなっています。
山本健造氏は、託された口碑を調査するうちになぜそうなったかに気付きました。
理由は、カテゴリーの『古代被差別部落とは』に紹介しています。
コメント
サイト興味深く拝見いたしました。先日高山を旅行し、また「日本のルーツ飛騨」「日本起源の謎を解く」の書籍も読みました。古代史、記紀について様々な研究、解釈、謎解きがたくさんありますが、天孫降臨にはモデルになった実際の出来事があり、そして飛騨発祥のこの国の起源がこちらのサイトで紹介されているようにはじまったのであれば、本当に誇らしいことであると思います。日本史は、大化の改新、建武の中興、明治維新、敗戦と通史を理解することは非常に難しいと感じています。どういう軸で見ていけばよいのかまだ決まっていません。
ありがとうございました。
たか 様
コメントありがとうございます。
高山に旅行した際、どこか懐かしい思いがしませんでしたか。
非常に大勢の人が、飛騨にくるとなぜか懐かしく思うと言うそうです。
初めて来た所なのになぜ、懐かしく思うのか不思議だと。
「日本のルーツ飛騨」「日本起源の謎を解く」の書籍も読みましたとの事。
山本健造先生、貴美子先生が数十年掛けて、口碑が正しいか記紀が正しいかを全国を調査し
飛騨の口碑の方が正確に伝わっているとの結論から執筆した本です。
たか様の日本史のご研究に役立つことと思っております。
ご意見ありがとうございました。