日本人のルーツや日本の起源について知りたいと思ったきっかけは、慶応義塾大学講師 竹田 常泰著(2013)「古事記完全講義」学研 523pp にこんな事が書かれていたからである。
「十二、十三才くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」
これは、20世紀を代表する歴史学者であるアーノルド・J・トインビー(1889―1975)の言葉である。
このブログは、日本人のルーツや日本の起源を知りたいと思った人、
しかし『古事記』『日本書紀』は神話化・おとぎ話化されている部分が多く良く分からない、本当の日本のルーツや日本の起源を知りたい、納得のいく史実を知りたい、そういう人に見て頂きたいと思い作りました。
ブログ作成の資料は、原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版です。
昭和10年に語部翁(かたりべおきな)から山本健造氏に口碑を「いつか良い時代がきたら発表してくれよ」と託されました。
「託された口碑」から日本人のルーツや日本の起源が解るので『原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版』の内容を紹介したいと思います。
最初は、下記内容について紹介します。
- 日本のルーツをどうして山本健造氏に託されたのか?
- 淡山(あわやま)の丹生(にゅう)の池から「ニュウ」と生命が湧いた
日本のルーツをどうして山本健造氏に託されたのか?
日本人のルーツが解る口碑をどうして山本健造氏に託されたのかをまず知りたい。
山本健造氏は、16歳の時に父親が腰痛で苦しんでいるにも関わらず12キロ離れたところへ生石灰(せいせっかい)を買うため荷車をひかなければならないことを思うといても立ってもいられなくなり、一心不乱に「父の腰痛治れ」と念じたのです。
(福来出版「山本健造前篇」より)
帰って来た父親が「今日は腰が全然痛まなかった」と言って念じる(精神統一)と病が治ることを体験しました。
この体験を神秘と片付けないで、学問的に解明しようと研究をつづけ18歳の時、六次元弁証法(ろくじげんべんしょうほう)の萌芽を得て生涯研究しました。
山本健造氏(23歳)は、教員検定試験に合格し旗鉾分教場(はたほこぶんきょうじょう)へ初めて赴任したときの事です。
教え子の母親が苦しんで七転八倒し医者へいく車を待っていました。
山本健造氏は、病人の傍らに座り一指ふれず瞑目(精神統一)すること30分位、すると激痛がピタリととまり歩いて帰っていったという事件が起きました。
この事件は、山奥の大評判となりその話は口碑を代々受け継ぐ語部翁(かたりべおきな)にも聞こえたのです。
語部翁(かたりべおきな)、山本を訪ね口碑を託す
語部翁は、分教場の世話係をされており山本に「病気をどうやって治すのか」を訪ねたのです。
山本健造氏は、父親の腰痛を念じて治したこと、神秘と言われるものは原理が解らないから神秘で原理が解れば神秘ではないとの持論から哲学・心理学・超心理学等々から研究し「六次元弁証法」を悟り今まで多くの方々を念じて(精神統一)治してきた体験をつたえたのです。
それを聞いた語部翁は、
「お前のような神通力(念じる力)というものが本当にあるとわかっているものなら、大昔から我が家に伝わっている皇室や日本の極秘の事が理解できると思う。
今こんなことを世間に漏らしたら流言飛語、不敬罪で監獄行きじゃ。
お前を見込んでしっかり伝えておく。
お前の生きているうちに良い時期が必ず来ると思うからその時、世の中に伝えてくれよ」と切々と頼んだのです。
(原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より)
淡山(あわやま)の丹生(にゅう)の池から、「ニュウ」と生命が湧いた
淡山とは、現在の乗鞍岳(のりくらだけ)のことである。
日本人のルーツをみんなで共有し、日本人として誇りに思えたらと思います。
語部翁が語った最初の事を『日本のルーツ飛騨』から抜粋しました。
口碑を”結月ゆかりさん”の音声で聞けます。
親子で聞いてみましょう。
むかし、昔、大昔、この大八島(日本列島)の国が未だない時、海の中からポッカリ顔出したのが淡山であった。
その淡山にある池を丹生池(にゅうのいけ)というが、その丹生池で”生命”がわいたのじゃ。
”ア” とは天、”ワ” とは地、天と地の山の池で”生命”がわき、思い思いに進化をとげて陸地にもだんだん現れてそして人間が現れてきたんじゃ。
先祖代々、わしらはどこから来たのでもない、ずーっと大昔からこの淡山の麓に住でいるんじゃ。
丹生(にゅう)とは、何もない所から、ニュウと生命が出てきた様子をあらわした言葉じゃ。
遠い遠い遥かに遠い御先祖さまからずーっと、淡山を拝み”生命”の源の丹生池を皆で囲んで 池の水に太陽を浮かべ月を浮かべて、その輝くところをジィーと見つめて 心を鎮めたのじゃ。
長い長い時間がながれる間に、元気のよい若い人たちは、思い思いの所へ行って暮らした。
淡山の向こうは長野、新潟に近く、友達づれでドンドン遠い所へ行った。
昔は、蒸し暑かったため、西の方へ行くより、長野、新潟、東北の方へ行く事が多かったんじゃ。
たまに子や孫が飛騨へ帰ってきたり、行った切り どこへいってしまったのか帰ってこなかったり、いろいろであった。
丹生川の奥は今でいう飛騨の玄関のようなところであった。
大昔は淡山の近くに住んでいたが、時代が流れると飛騨中に人が住むようになった。
(原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より)
日抱御魂鎮(ひだきのみたましずめ)
遠い遠い大昔、我々の先祖は、淡山を拝んだ。
そして、いつから始まったかわからぬ程の大昔から、時には淡山の丹生池を囲み、また住んでいる近くに先祖の亡骸(なきがら)を埋めて、その傍に池を造り、
皆で池を囲んで、池に太陽の光、月の光を浮かべてその光をジィーと見つめながら心から感謝して先祖を拝み、心を鎮めた。
その行事が朝夕なされ、日抱御魂鎮(ひだきのみたましずめ)といい、それが日抱(ひだき)、日抱(ひだ)とよばれさかんに行われたのじゃ。
飛騨を出て行った人々は、自分の故郷を、日抱(ひだき)をするところ、日抱(ひだ)といい後にひだ(飛騨)という地名になったのじゃ。
日抱御魂鎮は飛騨のあちこちで行われた。
大昔から長い長い間、最もさかんに行われたのが今の丹生川村で今ではその地が神社になり日抱宮(ひだきのみや)が十九社残っているようじゃが、三十以上はあったはずじゃ。
岐阜県大野郡丹生川村があり日抱宮白井神社が現在でもある。
この飛騨の地では大昔このかた、日抱御魂鎮がさかんに行われたのじゃ。
わしが五才か六才の頃、父親に連れられて山の奥へ行き、大人達が池を囲んでジィーと静かに座っていた事を覚えておるが、
それ以来、途絶えてしまったなぁ・・・・・・。
(原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より)
西洋の宗教と日本の宗教(古神道)の違い
さて太古を考えてみると、ただ衣食住にあくせくするだけでなく、余裕の時間があれば深く考え、積極的に明朗に行動し、目に見えない形より以上の世界を崇拝して、時間をさかのぼって先祖を拝み、先祖や大地を生み出した大自然を物に即して直観して、山や海や風の中に、火の中に生命を感得して、その生命を礼拝します。
それでもユダヤ教のごとく宇宙想像のゴットのごとき、架空の人格者を空想し、人間のごとく感情や意志を持っている神がたたってくると恐れるようなことはないのです。
キリスト教のごとく宇宙創造者としての神と、創られた人間との間に切断されることがないのです。
キリスト教では人間はいくら修行しても神になれないのです。
人はいくら修行しても宇宙の創造者にはなれないからです。
ところが日本人は、宇宙の外に人間と同じような自由意志を持つ者がいて、泥をこねてアダムを創り、アダムの肋骨でイブを創ったというような工作的神話を持っていません。
日本人は、宇宙そのものを生命体と感じ、その生命体がおのずと発展して山となり、海となり、草や虫、動物、人間になったと直観しているのです。
ですから、山の神や海の神、火の神といって拝んでも、山や海や火の中にある生命を拝んでいるのです。
白髪の老人が杖を持っているような擬人的な観念的偶像を拝んでいるのではありません。
山そのものを神として拝むのです。
海そのもの、火そのものを神として拝むのです。
言い換えれば、山の中に溶けている生命を神として拝むのです。
古代の人は山や海そのものを拝み感謝したのです。
社(やしろ)を作り御神体をその中に納めて礼拝したのは後のことです。
山を御神体として拝殿を作って拝んだのです。
飛騨の古代人は乗鞍岳を拝み、飛騨の中心に高くそそり立ち頂上に広い平地があり巨石のある山、日本の中央の分水嶺でもある位山を拝み、その山の巨石を磐座として、その横に天照大神(ヒルメムチ)や、それ以前の先祖を葬り、
拝んできたのです。
(山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版から引用)
原始社会に生まれた神社がここにある
水面に映した太陽の周りに人の輪を作り、我が命の淵源を拝み両親に感謝し、先祖からの申し伝えを暗唱しながら、大自然の中に生育する菜葉や楢や栗、山梨、うど、粟、稗などを食べて、自ら繊維を編んで着て、猿たちと友となり暮らしてきたのです。
そして光を水に映して囲んだそばには祖先を祭る祠をつくり、朝夕感謝し拝んできたのです。
こうして神社は生まれてきたのだと思います。
古代の先祖崇拝の神社は宗教でなくて、生活の中から生まれてきた感謝の道徳だと思います。
(山本健造著「明らかにされた神武以前」P42-43引用)
日本人の起源説は、飛騨の口碑が正しいと考える根拠
地球は五十億年前にかたまり、
大陸の東側の浅い海に附属していた日本列島は火山岩の一種の玄武岩(げんぶがん)に押されて東へ、東へと年間数センチメートルずつ移動をはじめ、長い年月を経て現在の位置になったと地学者は考えています。
最初に海上に頭を出したのが飛騨であったので地学者は「飛騨大陸」と言っています。
四億八千万年前のミジンコの化石が飛騨のアルプス麓、福地に発見され、サンゴ、三葉虫等多数の生物化石が発見されて天然記念物に指定されました。
日本アルプス麓の大森林の中には今なお、日本猿が住んでいます。
アルプスの麓(ふもと)の太古の人類はこれらの猿と先祖は同じであったと考えてもよいかと思います。
1992年(平成4年6月2日)産経新聞によると熊本県御船町で恐竜の時代に生きていた九千年前の哺乳類の化石が発見され日本本土に人類が進化する可能性を証明したものです。
こうして、日本に生まれ、日本で進化した純粋の人類が住んでいた頃は、世界の温暖な海岸や、大河の沿岸に、至る所に人類が進化を続けていたと推定されます。
アフリカに四百万年前の人類の骨が発見されると、その人間が全世界に広がったと考える学者がいます。
これは早計な考えでアフリカには骨を保存する条件が備わっていたまでのことです。
日本のように、酸性土壌で多雨地帯では分解が早くてとても人骨などは残っていません。
日本に骨が残っていないから、そこには生物は発生しないし、進化もない、従って人類は発生しなかったと断定することは、目の前にある物だけはみとめるが、正しい推理上の事でも見えないのだから否定する。
という短絡的態度であると思います。
(山本健造著 1992第4版「日本起源の謎を解く」福来出版から抜粋)
大和民族は日本国土にわいた民だ
平成四年六月二日産経新聞に発表されたところによると熊本県御船町で九千万年前の哺乳類の歯が発見されました。
この歯は現在の地球上に住んでいる哺乳類の総先祖に当るハツカネズミ程の大きさのものである。
と京都大学霊長類研究所の瀬戸口烈司助教授が語られています。これから考えても、日本に哺乳類が進化し人類まで進化したと言っても突飛な説ではないのです。
日本の温度は一万年も昔は今より八度ぐらい高かったとみています。
ですから、乗鞍岳や御嶽の間に近い日和田は海抜一千三百メートルもある所で、今ではとても人類の住めない所ですが、横穴式の住居跡が発見されています。これは旧石器時代のもので、今から二万年前から一万年前までにわたる極めて長い間、人々が住んだ遺跡であって、旧石器時代最後頃の人類歴史を探るのに極めて貴重な資料です。
恐らく日本でも猿人から原人、原人から旧人、旧人からホモサピエンスの私どもに至るまで進化を続けてきたものと思います。
東北地方の馬場壇遺跡からは二十二万年前~三十七万年前の石器が発掘されています。
これらの人を原日本人と呼べると思います。今でも霊長類の猿がアルプスのふもとに厳寒に耐えて住んでいて、畑へ出て芋などを掘って逃げて行くのです。
猿などは舟に乗って渡来したとは思われません。
猿がいるということは太古の人類がこの地で進化を続けてきた証拠です。渡来説を唱える人は「アイヌ人も渡来民であり、縄文人が渡来し、その後弥生人が渡来して縄文人を九州や北海道へ追い詰めた」とよく言いますが、私はにわかには信じられません。
少数の渡来民族が文化や言語を持ってきても、その言語を吸収同化する程の日本語が全国にひろがっている程に原日本人が住んでいたと推定されます。
山本健造著「明らかにされた神武以前」P248引用
原日本人には白血病ウイルスは無かった
京都大学名誉教授日沼頼夫氏が、1981年に、新しい血液ガン、成人T細胞白血病(ATL)の原因である新ウイルスを発見されました。
このウイルスの自然感染の経路は、家族内だけ、つまり、母子、夫婦間に限られるのです。
丁度、遺伝のように、子々孫々に伝わってきたウイルスです。
ただ、感染しても、必ず発病するわけでないのです。
発病すれば、二年以内に殆ど死ぬのです。
このATLウイルスの感染者は九州や四国の南部に生まれた人に多いことがわかり、特に沖縄とアイヌに著しく多いことがわかりました。
次の地図でわかる如く、このATLウイルスの感染度は北海道のアイヌは45.2%と極めて高いのに北海道に住む昔からの和人は1.1%と極めて低いのです。
そして沖縄の琉球人が33.9%と非常に高く、九州南部も7.8%とかなりの感染度を示し中国地方や四国は0.5%となり、兵庫、京都あたりは1.2%です。
ところが飛騨を中心とする山岳地帯は天然の城壁で民族の流入は極めて少ない太古のままの血液を保持しているので感染度は極めて低く0.3%で、0に近いのです。
そして東北地方は1.0%であり、茨城県になると0.7%、だんだん飛騨に近くなると感染度が低くなります。
これは何を意味するかというと、原日本人は感染度0.0%であって、日本全土にほぼ満遍なく住みついていたところへ、南方の感染度の高い民族が暖流に乗って日本の沖縄や九州に漂着し、四国や、中国地方に上陸して次第に本州に入り込んだと推定できます。
兵庫、京都、大阪あたりは瀬戸内海に入り込んだ感染度の高い民族が上陸したと推定できます。
そして南方から漂流した人々が北海道に上陸し定着したのがアイヌであると推定できます。
漂着し易い九州の鹿児島、長崎、宮崎、九州の北部、四国の南部、紀伊半島の先端、隠岐、東北の飛島、牡鹿半島、三陸海岸、北海道の一部に感染度の高い比率を示していることからも、
日本には感染度0.0%の原日本人がほぼ満べんに住んでいたのに稲作をもたらした弥生時代(BC300~AD300年頃)に南方の民族が新しい言葉、風習ばかりでなく、ネズミまでつれて来たらしいのです。
感染度の高い地方のネズミの品種が人間の場合と同じなのです。
(山本健造著「日本起源の謎を説く」福来出版 引用)
「日本起源の謎を解く」では、母系だけの遺伝子を伝える遺伝子で人種がわかる事や、アイヌと宮古島に共通特異な遺伝子の発見がある事。
さらに、人類発生と言語についてからも日本人のルーツは飛騨であり、飛騨に伝わる口碑が科学的に正しいことの根拠を書いていますので興味がある方は是非読んでみてください。
最新DNA科学で解ったことは、飛騨の口碑が正しい事を裏付ける内容
国立遺伝学研究所 斎藤成也教授は、
「大陸の中国とか東アジアの人たちとは少し私たちは違っている。」と言っています。
まとめ
古事記は、神話化されボカされているが歴史的史実が元となっています。
オリジナルは、口碑として飛騨の山奥の語部翁に伝わっていました。
大勢の病人を一指触れずに念じて(神通力)治してきた山本健造氏だから語部翁は「いつか良い時期に、世の中に伝えてくれよ」と託されたのです。
コメント
古事記には数多くの過ちが記載されている、と言うことを聞いていました。その事について、飛騨の口伝が参考になるのではないかと思った。
佐藤 様
コメントありがとうございます。
山本健造先生が、数十年を費やして古事記が正しいか、飛騨の口碑が正しいかを全国を回り調査しました。
その結果、飛騨に伝わる口碑が正しい事がわかりました。
調査の内容と結果を纏めたものを著書として出していますので是非、参考にしてください。
日本民族は鉄器民族であり訓読みでは「ヒムカイト(ヒッタイト)」といいアーリア人の本家が東アジアに「天孫降臨」し国つ神である東アジア諸民族を征服混血したのち神武東征にて「ヤマト」へ入り農耕社会を発展させた。
ドイツ人はアーリア人ではない。劣性遺伝である金髪、青い目等の純粋さは異民族を征服していないためである。
たいして、長弓族アングロサクソンは西へ行った日本軍の子孫である。英語の動詞、形容詞はほとんど日本語からきている。
「ヒムカイト(ヒッタイト)」様
コメントありがとうございます。
貴殿は、アーリアン学説から眺めたコメントでしょうか?
『アーリア人の本家が東アジアに「天孫降臨」し』とありますが天孫降臨の意味を誤解して使用しているようにお見受け致します。
アーリア人の本家とはだれですか?
本家・分家は、国防の為に一致団結する必要性から国造りを始められた大淡上方様(おおあわのうわかたさま)がおおよそ2500年前に考えたシステムです。
本家には苗字がなく、分家する際に苗字を貰ったのです。
大淡上方様から代々苗字がなく現在まで続いています。
現在は、天皇を呼ばれていますがその前は、スメラミコトとよばれその前が上方様(うわかたさま)と呼ばれていました。
アーリア人の本家とは、天皇のことでしょうか?
天孫とは、「高天原(飛騨)から降りて来た人々で、日本全体の事を案じ、身内の者を危険な場所に遣わし、自ら進んで国難に当たったり、日抱御魂鎮(ひだきのみたましずめ=精神統一)から得た神通力で病気を治したりしたので尊敬され、天孫子(あびこ)と呼ばれた。
飛騨より国造りのために下山した人を漢字が伝来してからは天孫(てんそん)とよびました。
(山本健造著『日本起源の謎を解く』福来出版P288から参照)」
降臨とは、「弥生前期頃、第3回目の寒波が訪れて、飛騨王朝は安川原の会議でヤマノフモト(畿内=飛騨から見れば)に下山することになりました。
要するに大勢で移動したことを降臨と言ったのです。
近畿一体を開拓する為にヒルメムチ命(天照大御神)の孫の饒速日命(にぎはやひのみこと)は、弟の邇邇芸命(ににぎのみこと)が皇統命の位を授けられて筑紫へ降臨されるより一足早くヤマノフモト(畿内=飛騨から見れば)に降りられたのです。
ヒルメムチ命の息子天津日子根命(あまつひこねのみこと)は一族を引きつれて滋賀県の彦根に下り開拓され、そこに祖父母の伊邪那岐命と伊邪那美命を祀り、それが後に多賀大社(たがたいしゃ)となって発展し、彦根(ひこね)という地名になりました。
さらに天津日子根命はそこを身内の者に任せて、三重県の多度を開拓されてそこで崩ぜられました。
天津日子根命の子大河内命やその子孫は各地を開拓され、いたる所に河内(かわち)、大河内の地名をとどめています。
この頃は金属製の鏡に先祖を祀りこめて下山したのです。
『古事記』に「雲を押し分け、踏み分け」とある天孫降臨事件のことです。
伊勢神宮に祀られている八咫鏡(やたのかがみ)はこの鏡なのです。
(原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より)
貴殿の、『国つ神である東アジア諸民族を征服混血したのち神武東征にて「ヤマト」へ入り農耕社会を発展させた。』とありますが、「東アジア諸民族を征服混血したのち」ってどのくらいの年数を掛けたのでしょうか?
日本人(大和民族)は、他民族を征服するような野蛮な民族ではありません。
国防の為に、攻めて来た民族とは戦っていますがあくまでも国防の為で正当防衛(アラハバキ精神)です。
アラハバキ精神とは、「飛騨は道らしい道はなく、茨(いばら)が至るところに生えていたので開拓の為に山野を跋渉(ばっしょう)する時はハバキというものを髓(すね)に巻いたのです。
そして、柴や茨をどんどん歩み渡ることをアラコザキとも言います。
アラコザキするとき、足に巻くハバキをアラハバキと言いました。
アラハバキは飛騨の古代の人は必ず着用したもので、先祖から伝えられた皮のアラハバキは貴重なもので家宝の如く大事にしていたのです。
そしてこのアラハバキは戦争にゆく人の正当防衛精神の象徴であったのです。
それで飛騨の古代の人々はアラハバキ精神の契いをたてて、絶対に侵略しなかったのです。
ですからヒルメムチ(後に天照大神と讃う)が邇邇芸命を筑紫(九州)に遣わしになる時(天孫降臨という)も「戦争しないで話し合いでまとめよ」と申されたのです。
話し合いでまとめる事をアラハバキというように転化してきたのです。
こんなわけで、近畿、関東方面の神社の門外に小社を設けて、髄を守るかの如くアラハバキ神を祀るのが習慣になっているのです。
アラハバキ神社と堂々と名乗る神社もあります。
(山本健造著「日本起源の謎を解く」福来出版p132引用)
貴殿の内容に言語に関する事も書かれていますが、ここまでにさせてください。
とりあえず参考までに、山本健造著「草食瞑想と肉食闘争が分けた深層心理」福来出版の本を読んで見てください。
失礼いたします。
とても参考になり、勉強になりました。貴重な情報をありがとうございました。
古事記の記事も拝見させていただいたのですが、現在の出雲も色濃く残っているのか気になりました。
嘘か誠かはわかりませんが、以前、出雲信仰で日本の歴史やその他を勝手に変えた者たちというのは朝鮮からきているというのを、なにかの資料で拝見したことがありました(なんという名前だったか。。。)。私の育った場所では部落と無縁で恥ずかしながら大人になるまで部落という言葉すらも知りませんでした。出雲信仰が朝鮮的だとしたら、朝鮮的部落と、天皇の血をひいた部落にわかれるのかな?と考えていました。拝見していると出雲信仰は日本人にはない『恩を仇で返す』『楽して人の物がほしい』が上手そうでしたから、現代でも良い人のよう嘘つきを隠しながら人を騙して生きていそうだなと感じました。とても素晴らしい貴重な研究資料を公開してくださりありがとうございました。
ルル様
コメントありがとうございます。
>とても素晴らしい貴重な研究資料を公開してくださりありがとうございました。
この資料は、山本健造著『明らかにされた神武以前』『日本のルーツ飛騨』『暴かれた古代史 二千年の涙』を紹介したもので私自身は何もしていません。
数十年間、全国を回り調査研究した山本健造氏と山本貴美子氏にお礼を申し上げて頂ければ幸いです。
六次元会ホームページのお問合せからでも「とても素晴らしい貴重な研究資料を公開してくださりありがとうございました。」とお伝えください。
六次元会:http://rokuzigenkai.com
もしよろしければ、原著をお読みいただきたいと存じます。
>朝鮮的部落と、天皇の血をひいた部落にわかれるのかな?
現在部落問題は、複雑になっていますので簡単に分けられるものでは無いと思っています。
しかしながら、最後まで初代大淡上方様から続く血筋(建国の功労者)を守って来られた方々が、部落に落とされたことは推測がつきます。
話は、変わりますがルル様が以前に拝見した資料に興味があります。
何か、ささいなことでも思い出したならお知らせいただければ幸いです。
ちなみに、『日本のルーツ飛騨』が全国誌に特集で紹介されるそうです。
学研プラス社 刊
『月刊ムー』10月号 9月8日(金)書店発売 です。
ルル様、今後ともよろしくお願いいたします。
コメントです。
神武以前は当たり前ですが人間でいいと思います。
神武の父母 祖父母 祖祖父母・・どこまでも・・きりがないと思います。
でも どこかで 始点があるとしたら それは人間でしようか?
それは僕にはとてもわかりません。
仮に始点がミジンコだとして ミジンコでも水分がないと生きることは
できないように想像しますが どうなんでしょう?
生物は水があればそこから発生すると仮定した場合ですが、
では水は どこから発生したのか?
私見ですが もちろん空想想像ですが、
神武天皇以前の はるか はるか さかのぼる 始点は
水ではないかと思いました。
水は 空から地に 雨となって落ちてくる存在だと思います。
この水から 最初の生物が誕生したのかも?・・・と想像です。
じゃあ 水を拵えたのは 誰なのか?
そうなると 自然界と答えるしか 言い方がわかりません。
そして
水だけでは 寒いし冷たいし
さらに 温かい太陽のひざしも ほしいですね。
東京の最近のお天気みたいに 雨ばかりが続いては
寒いですし 太陽のひざしが ないですから
野菜もできないです。
水と 陽射しと ふたつが そろえば はじめて
野菜がとれます。
神武天皇以前は どこまでも さかのぼれば
たぶん 水と 太陽の陽射しの 二つだと想像します。
この水にも 名前をつけてあげて
太陽の陽射しにも 名前をつけてあげたら
それは いかにも 神様のような お名前になるのでは ないでしょうか。
昔 お墓の骨壷を開いて 見たことがあります。
骨壷のなかは 骨は消えてて きれいな済んだ 真水でした。
これは 新鮮な驚きでした。
ためしに 飲んでみていればよかったと すこし 後悔しています・・・笑
山本先生のご研究は すばらしいと思います。
これを紹介された こちらの日記ブログは
たいへんな ご苦労さまだと思います。
とても勉強させていただきました。
神武天皇以前について触れることは
タブー視されてきていましたから
これからは その壁を とりはずして いきたいものだと
強く思います。
わんわん さんへ
コメントありがとうございます。
裏古事記のサイトから哲学的生命論へと飛躍されていますので、
どのように回答したら良いのか、上手く質問に答えられるかどうか
解りませんがコメントを読んで感じたままの回答を書かせていただきます。
まず、
>神武以前は当たり前ですが人間でいいと思います。
飛騨の口碑によれば、神武天皇を遡って行くとヒルメムチ命(天照大神)さらに遡って15代淡上方様、
さらに遡って初代大淡上方様となります。
同じ人間ですが、初代大淡上方様は日抱の御魂鎮(精神統一の事)をすることで近い将来起こる危機を予言し
対策を考えみんなが幸せに暮らせることを考えていたお方であるから、みんなから敬われ尊敬されたお方です。
いずれ、海を渡って異民族が侵略してくることを透視し、国造りを指示し本家と分家の仕組みを作り国を一つに
纏めよと言った最初のお方です。
子孫は、約束を代々守ってきました。
川の流れにたとえて、子孫から見て代々上方様を努められた方は「上(かみ)」となり子孫は「下(しも)」になります。
漢字が入って来てから「上=神」となりましたが、神とは「上(かみ)」のことで自分から見て血筋が上の人です。
いずれ自分にも子孫ができれば、自分も子孫から見れば「上(かみ)」になります。
裏古事記で始点は何処かと言われると、「初代大淡上方様(しょだいおおあわのうわかたさま)」だと思います。
次は、「哲学的な生命の始点」という受け取り方で回答させていただきます。
尚、回答には山本健造博士の著書『六次元弁証法』『宇宙統一理論の試み』を参考にさせていただきます。
わんわんさんがおっしゃる通り、水と陽射しは生命維持(植物等を含み)に欠かせないものです。
タレス(BC624~546)は「水が宇宙の根源だ」と言えば、ピタゴラス(BC600年頃)は、「数だ」と云う。
ヘラクレトス(BC540年頃)は「火」であり「動く」ということだと主張しました。
デモクリトス(BC460~370)は「宇宙の萬物は微粒子よりなる」と云って唯物論の元祖となります。
プロタゴラス(BC500~430)やゴルギャス(BC483~376)は「宇宙に定まった法則はない」と云ったのです。
プラトン(BC427~347)は「宇宙の根源はイデァである」と云って唯心論の元を開きました。
それ以後、哲学は唯心論が唯物論より正しいとなったり、唯物論が唯心論より正しいとなったり、何回も入れ替わり決着がついていません。
しかし、インドの最古典リグ・ベーダには巨大なプルシャ(原人)から宇宙が展開したと書かれ、日本の古事記には「天御中主神」として書かれ、
インドも日本もこの宇宙は生命体である事を暗示しています。
山本健造博士の六次元論は、唯物論も唯心論も全体の側面しか観ていない、宇宙の本体は生命である。
『物心未分化の生命が宇宙の本体』と言う学説です。
六次元論に照らし合わせて考えると、わんわんさんの求めている「どこからが始点」と言う疑問は「時間的」と「エネルギー的」な視点から眺めた疑問で
あるように思います。
全体を眺めるには、「空間的」「時間的」「エネルギー的」「志向的(方向的)」の4方面から眺めなければ解らないと山本健造博士は言っています。
しかし、人間には認識の限界があり、これを証明したのがハイゼンベルクの「不確定性原理」です。
不確定性原理とは、粒子を認識しようと位置(空間)を調べると運動量(エネルギー)が解らなくなるという具合に何かを求めると
何かが測定できないというものです。
まとめると「無」から「有」は生じないから、大宇宙そのものが大生命であるから水が発生し、植物は条件がそろえば
伸びよう 伸びようと働き、動物(人間をふくむ)は生きよう生きようと働く。
飛騨の口碑でもありましたが、「丹生の池」で生命が湧き人間まで進化したとあります。
なので、「哲学的な生命の始点」とは大宇宙そのものになると思います。
詳しくは、山本健造著『六次元弁証法』『宇宙統一理論の試み』をお読みください。
私は、本を読んだだけで専門家ではありませんので、このような回答しかできません。
解りずらい点もあるかと思いますが、わんわんさんのご研究が進まれたならご報告いただければ幸いです。
人骨はリン酸とカルシウムでできているので、酸性の環境にさらされるとカルシウムは溶解します。
火山灰性土壌の日本の国土では酸性土壌故に微生物が少ないので、それによる分解は起こり辛いと考えます。
日本で生水を飲んでも大丈夫なのは、酸性土壌で殺菌されて微生物が少ないからです。
ミジンコなどの微生物が太古の地層から発見されるのは、その微生物が環境から浸食されづらい物質に取り囲まれていた場合で、骨が溶けるのに微生物が残っているのはおかしいというのは、極めて短絡発想です。
あ 様
コメントありがとうございます。
>骨が溶けるのに微生物が残っているのはおかしいというのは、極めて短絡発想です。
どこの部分を指して言っているのかわかりませんが、短絡発想であろうがなかろうが、「飛騨の口碑」を紹介しているブログです。
現在でも日本は、本家と分家で仲良く暮らしています。
また、苗字は地名等にもなっています。
いつだれが、本家と分家というシステムを作ったのでしょうか?
どこの国にもありませんから、日本の日本人の文化です。
自分の先祖を遡って行けば微生物へ繋がり、大自然へつながっていくことは事実です。
口碑が残っており、現実に日本人が日本に大昔から住んでおり、精神文化(日抱きの御魂鎮め)が伝わっている現実。
日本に日本人がいること自体、命を遡れば微生物にまでさかのぼっていきます。
急にパッと人間が現れたわけではないですから。
あ様のご研究結果をよろしければお聞かせください。
参考にさせていただきます。
四億八千万年前のミジンコの化石が飛騨のアルプス麓、福地に発見され、サンゴ、三葉虫等多数の生物化石が発見されて天然記念物に指定されました。
日本アルプス麓の大森林の中には今なお、日本猿が住んでいます。
アルプスの麓(ふもと)の太古の人類はこれらの猿と先祖は同じであったと考えてもよいかと思います。
1992年(平成4年6月2日)産経新聞によると熊本県御船町で恐竜の時代に生きていた九千年前の哺乳類の化石が発見され日本本土に人類が進化する可能性を証明したものです。
アフリカに四百万年前の人類の骨が発見されると、その人間が全世界に広がったと考える学者がいます。
これは早計な考えでアフリカには骨を保存する条件が備わっていたまでのことです。
日本のように、酸性土壌で多雨地帯では分解が早くてとても人骨などは残っていません。
日本に骨が残っていないから、そこには生物は発生しないし、進化もない、従って人類は発生しなかったと断定することは、目の前にある物だけはみとめるが、正しい推理上の事でも見えないのだから否定する。
という短絡的態度であると思います。
4億8千万年前のミジンコが残っているのに、人骨は酸性雨で溶けて無くなるのは何故ですか?
きっとあなたは専門家じゃないから知らないとしか言わないんでしょうね。
あなたはDeNAの健康サイトの騒動を知らないのですか?
山本建造っていう人が本で書いているのを紹介しているだけだから、自分は知らないと言えば通用するとでも思っているのですか。
何の根拠もない事をネットに流すのは問題ですよ。
山本建造って人亡くなってるし。
誰が責任取るんですか。
ニャンコ様
はじめまして、コメントありがとうございます。
ニャンコ様のご意見・ご指摘を尊重しながら回答させていただきたいと思います。
私が、山本健造先生・山本貴美子先生のご著書を紹介するブログ(当サイト)を作ったのは最初に書かれているように「十二、十三才くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」と言うショッキングなことからです。
私は日本人として大和民族として、自分のルーツを、また素晴らしい日本の国がどういう具合に成り立ってきたのかを知りたいと思いました。
古事記は、おとぎ話のような内容で書かれている所があり史実としては?マークが私の心に付きました。
日本書紀は天皇の悪口が多く書かれていることから、ネット上に「天皇は覇者である」ような内容を書き込んでいるが、果たして覇者である天皇が自分の悪口を書くのか?と、これまた自分の心に?が付きました。
そんなときに拝読したのが山本健造著「明らかにされた神武以前」福来出版です。
神武以前の事が、口碑として飛騨に伝わっている内容を山本健造先生・山本貴美子先生が古事記が正しいか、飛騨に伝わる口碑が正しいかを全国を数十年間掛けて調査して回り書き上げた名著だと私は思っております。
その本の内容が、私の心に響き、日本人(大和民族)の素晴らしさ・尊さを再認識させられました。
日本には、本家と分家と言うシステムがありますが、いつからなぜあるのかも私は知りませんでしたが、初代大淡上方様が国防のため、みんなが安心して幸せに暮らせるためにはどうしたらよいかを真剣に考えて作られたシステムであり現在でも生きているシステムです。
こんな素晴らしい日本起源のお話は、おとぎ話化されている古事記より魅力をかんじます。
そう思うから、ブログ(日記型ホームページ)にしたわけです。
ニャンコ様の問い合わせ、
『4億8千万年前のミジンコが残っているのに、人骨は酸性雨で溶けて無くなるのは何故ですか?
きっとあなたは専門家じゃないから知らないとしか言わないんでしょうね。
あなたはDeNAの健康サイトの騒動を知らないのですか?
山本建造っていう人が本で書いているのを紹介しているだけだから、自分は知らないと言えば通用するとでも思っているのですか。
何の根拠もない事をネットに流すのは問題ですよ。
山本建造って人亡くなってるし。誰が責任取るんですか。』
意味が分かりません。
ブログ(日記型ホームページ)に、「今日私は、頭が痛いので脳腫瘍と思い病院に行きました」と書いた場合は、脳腫瘍と思った根拠を書かなければ責任を問われるのでしょうか?」
ニャンコ様がご研究されている日本と言う国の成り立ちや史実と、山本健造先生が全国を調査し推論もあると思いますが纏めた内容が違うからと言って、誰になんの責任を取ればよいのでしょか?
ニャンコ様は、「根拠がない事をネットに流すのは問題ですよ」と言いますが「根拠がない」と決めつける「根拠」はどこからくるのですか?
ニャンコ様の神武以前説を後学の為に、返信していただければ幸いです。