天皇即位式、二千年来飛騨位山より位板が献上され続けた

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位板の献上

原著者/山本健造 編集者/山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版p15引用

後醍醐天皇御笏木

上の写真は、『位山のイチイの笏木献上』
建武年間(1334年~1335年)国司姉小路家綱より後醍醐天皇に御笏の料として献上。
写真は、「飛騨一之宮ものがたり」からお借りしました。

天皇の即位式(大嘗祭)では、二千年来飛騨の位山(くらいやま)の一位(イチイ)の木で作られた御笏木(おんしゃくぎ)が献上されています。

なぜ、「飛騨位山の一位の木」なのでしょうか?
この謎を山本健造著「日本起源の謎を解く」「明らかにされた神武以前」

原著/山本健造 編集/山本貴美子「日本のルール飛騨」

哲学博士 山本健造監修 山本貴美子著「破られた二千年の魔法」
からご紹介させて頂きます。

「天皇即位」飛騨の位山(くらいやま)は皇祖の御陵の山

位山

「位山」この場所から頂上を眺めて山本健造博士・山本貴美子先生は手を合わせていました。

系図(日本起源)

山本健造著「日本起源の謎を解く」福来出版 p4から引用

「古事記神話より正確に日本人のルーツが口碑として飛騨に伝わる」でも書きましたが、日本民族(大和民族)は、淡山(あわやま=乗鞍岳)の丹生の池(にゅうのいけ)から生命が湧き先祖代々ずーっと大昔から淡山の麓に住み日抱御魂鎮(ひだきのみたましずめ)を行い皆仲良く暮らしていた。

今から約2500年前の頃に大淡上方様(おおあわのうわかたさま)と申し上げる、賢くて、とてつもなく神通力を持ったお方が籏鉾(はたほこ)の奥の方に出られ国防の為に国造りを始められる。
そして、「これからは、団結して固まってゆかねば幸せを守ることはできない」と考え本家と分家という仕組みを考えられた。
上方の家(後の皇室)には苗字がなく分家する時に苗字をもらったのです。

15代淡上方様は、飛騨中を治めるには雪のない宮村の方が都合が良いと都を丹生川の奥から宮村へ移す決心をされました。

位山 巨石群

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

天の岩戸

位山は古代飛騨王朝の御陵です。頂上に巨石群があり、通称「天の岩戸」などと言いますが、真実は飛騨王朝のスメラミコト(後の天皇)の御一族の霊を祀るのが、この大岩です。 この大岩の空間にサヌ(神武天皇の本名)を祀り、「サルやないぞ、サヌやぞ」と厳しく誡めてきましが、今の世に神武天皇と知るものは一人もいませんでした。(哲学博士 山本健造監修 山本貴美子著「破られた二千年の魔法」より)

大淡磐座

大淡磐座(おおあわのいわくら)「磐座」とは、神の御座所。

15代淡上方様までは、飛騨を治める御方を上方様(うわかたさま)と申し上げてきましたが、宮村に都を移した淡上方様は後継者の孫に皇統命(すめらみこと)の尊称を授け、ここに位山命(くらいやまのみこと)が初代皇統命となられたのです。

そして淡上方様は宮村で崩御され位山の皇祖岩の横に葬られました
あの位山の大岩は山にあちこち散らばっていた大岩を丸太の上を転がしたり、引っ張ったりして今の位置まで持ってきたものです。

その後、皇統一族が亡くなるとあの位山の皇祖岩の横に代々埋めたのです。

そして皇統命が位につきなさる時には、歴代の先祖の皇統命の眠る位山の一位の木の板で辞令が下りました。
その頃は位板と言っていました。

今なお天皇の御即位式の笏木は飛騨の位山の一位の木で作られて献上されています。

(原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より)

飛騨の口碑の所々を抜書きしたような『記紀』

古事記の内容

古事記

シラギ教の教義としての日本書紀

日本書紀

『記紀』だけを読んでいると物語の端々が書かれていて、つながりや意図が全然わかりませんが、飛騨の物語をみると『記紀』に書かれていることがつながって、ハッキリ歴史としてわかります。

飛騨王朝はサヌにスメラ命を授ける

サヌ命(神武天皇)筑紫を平定する

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

「古事記の嘘、ヤマノフモトへ天孫降臨・筑紫へ遠征・神武御帰還・が正しい」に詳しくご紹介しましたが、ジンム天皇がニギハヤヒと話がついて大和へ無事お帰りになると、直ちに「ニニギの孫のサヌ(ジンム)無事大和に帰還」の知らせが飛騨に届けられました。

その知らせを持ってきたのがクロキ一族です。
知らせを受けた飛騨王朝は、位山(飛騨・宮村)の飛騨王朝の歴代スメラ命の御陵に報告しました、そして位山の一位の木で作った、スメラ命(天皇)の位を授ける旨が昔の文字で書かれた位板(辞令)と、天照大神が生前いつも身につけておられた勾玉の首飾りと、そして「スメラ命は八咫鏡を常に御殿の中に祀って我(天照大神)を見るが如くにせよ」という言葉を添えて「八咫鏡」と、さらに天照大神からのいくつかの厳格な御遺言をジンムに授けるべく、クロキに預けました。

クロキは飛騨中の若い男女を大勢つれて、再び大和へ帰ったのです。
その時に一緒に大和へ行った大勢の人たちが、畝傍山(うねびやま)の麓(ふもと)に住んでジンム天皇をお守りしたのが、飛騨町、上飛騨町、山本町、田中町等々として今に残っています。

(哲学博士 山本健造監修 山本貴美子著「破られた二千年の魔法」より)

黒木-

クロキ一族の子孫。先祖が九州から来たと伝える飛騨・宮村段在住の黒木甚一郎氏(中央) と監修者・山本健造(左)、筆者(右)

サヌ(ジンム)は橿原で即位

大和朝廷開かれる

飛騨への報告を終えて大和へ帰ったクロキから、サヌに「八咫鏡」と位板が届けられて、橿原で御即位式がとり行われ、サヌは飛騨王朝最後のスメラ命であり、飛騨から大和へ都を移した大和朝廷最初のスメラ命(ジンム天皇)として即位しました。

この時飛騨から位板が授けられたことが後に引き継がれて、代替わりの即位式には、飛騨王朝歴代のスメラ命の眠る飛騨の位山の一位の木で作った位板が授けられることになり、その後中国から儀式の時に笏木を使用するやり方が入ると、位板が笏木に変わりましたが、笏木に変ってからも、飛騨の位山の一位の木で作られて歴代スメラ命の御即位式に授けられるのです。

飛騨の匠・糠塚喜一郎氏 笏木を謹製

糠塚喜一郎氏

高山市の故・糠塚(ぬかづか)喜一郎氏は、今上陛下と昭和天皇の二代に亘って御即位式の笏木を謹製し、勲六等瑞宝章(ずいほうしょう)を授かっています。

(哲学博士 山本健造監修 山本貴美子著「破られた二千年の魔法」より)

位山に飛騨王朝最後のスメラ命(みこと)のサヌを祀る

位山にサヌを祀る

サヌ(ジンム)の使いで飛騨に報告に来たクロキのうち、大和に帰らずにそのまま残った人々の子孫が位山の麓に広がっており、その人々の家に「先祖が九州から帰ってきた」と言い伝えています。

クロキの家は飛騨王朝の昔、天照大神の一族であり、クロキのキとは神様にお供えするお神酒のキで、黒い酒を造って神様にお供えする家柄であったのです。

この他、シロキの家は白い酒を造り、アオキは青い酒を造ってお供えし、いまでも黒木、青木、白木として子孫が続いています。

位山の頂上近くに飛騨王朝歴代スメラ命一族の御陵があります。
その御陵の正面は大岩と大岩が重なっており、大岩の間に穴の空間ができて雨がかからなくなっています。
その穴の中にサヌの祠がありました。
そして「サルではないぞ、サヌだぞ」と婆様が新嫁に厳しくいましめて、代々伝えて守ってきました。

高山市山口町在住の橋川喜一氏は、母親の実家が位山の段です。
子供の頃母の実家へ行った時に婆さまが「サルではないぞ、サヌだぞ」と厳しく言っているのをハッキリと憶えていると言っています。

今から65年前、飛騨の宮村小学校教師の中畑喜一先生から、授業の中で位山の御陵にサヌが祀ってあると教えてもらったと、当時宮村小学校の児童であった桑原やなさん(旧姓谷口・宮村寺組在住)は言っています。
現在桑原やなさん(七五才)は位山の段に在住です。

ところがこっけいなことには、サルではないサヌである、と厳しく言いながら、サヌとはジンム天皇の本名であることを誰一人知らないのです。
飛騨の歴代スメラ命一族の御陵に、飛騨王朝最後のスメラ命であり、後の世にジンム天皇と呼ばれるお方が本名サヌとして祀られていることは、飛騨が高天原である証拠の一つでもあります。
ちなみに、ジンムが上陸した紀州の浜辺はサヌの浜として今に残っています。

橋川喜一氏

飛騨・高山市山口町在住の橋川喜一氏(昭和五年生れ)(左)宅を訪れ談笑する監修者・山本健造(右) 橋川喜一氏の母のぶは位山のすぐ下の段部落の桑原本家の生れで、喜一氏が子供の頃母の実家へ行った時、婆様が「位山に祀られているのは、サルではないサヌである」と厳戒してサヌをお守りしていたのをはっきり憶えていると語った。

飛騨には歴史の裏の裏まで伝えている

飛騨にはこのように歴史の裏の裏まで伝えています。
本書では省略しますが、ニニギの九州への降臨についても、『記紀』は海幸彦・山幸彦等のピントはずれのおとぎ話が書かれていて歴史になっていませんが、飛騨には、ニニギが内乱を鎮めるために行った時の様子が、飛騨に詳しく伝えられています。
(詳しくは『明らかにされた神武以前』山本健造著を御覧下さい)

飛騨の口碑に伝わる剣緒(つるぎお)神社

剣緒神社

岐阜県吉城郡国府町三川

飛騨王朝の天孫降臨後、飛騨に残っていた火明命(ほあかりのみこと)の子孫が天叢雲ノ剣(あめのむらくものつるぎ)を奉じて下山し、今の熱田(あつた)に降られました。

ヤマト姫が八咫鏡(やたのかがみ)を奉じて熱田に逃げて滞在中、日本武尊(やまとたける)が天皇の命で東北慰撫(いぶ)のために熱田に立ち寄られ、この剣を戴き出発されました。

帰途、中尾(下の地図参照)から飛騨に入り三川に滞在された後、美濃へ向け出発される時、板東(ばんどう)、船坂等の家来は三川に残ることとなり、天叢雲ノ剣の緒を戴いて三川に祀ったのが剣緒神社です。

板東氏、船坂氏の子孫は現在は板東憲明氏、船坂氏として飛騨の名家として今に続いています。
その後、日本武尊は息吹山の毒水に当って病み、遺言により剣は熱田に返されました。

飛騨王朝略図

(哲学博士 山本健造監修 山本貴美子著「破られた二千年の魔法」より)

天皇即位、まとめ

天皇の即位式(大嘗祭)では、二千年来飛騨の位山(くらいやま)の一位(イチイ)の木で作られた御笏木(おんしゃくぎ)が献上されています。
いちい は、日本中に広く分布する常緑針葉樹です。
それが なぜ 飛騨のいちいの木 なのか?
(いちい とは 一位、位山の いちい!)

飛騨の位山は皇祖の御陵の山だからであり、神武天皇の昔より即位式には天皇の辞令として位板(笏木)が謹製されている。

サヌ命(神武天皇)がヤマトイワレ命と改名され、スメラミコト(後の天皇)の位につかれてから今上天皇まで125代、飛騨の位山から笏木が献上され続けています。

笏木-2

飛驒一宮水無神社(みなしじんじゃ)ホームページ(http://minashijinjya.or.jp/description.html#sc)より引用

笏木-1

飛驒一宮水無神社(みなしじんじゃ)ホームページ(http://minashijinjya.or.jp/description.html#sc)より引用