日本人のルーツと日本起源が書かれた古事記・日本書紀は、飛騨王朝を逆恨みした者によって編纂された。
その、飛騨王朝を逆恨みした者とは、出雲の大国主命(オオクニヌシ)が大陸に渡って新羅(シラギ)の女との間に出来た子供とその子孫達である。
オオクニヌシは、いつ頃大陸に渡り大勢の新羅(シラギ)の女との間に子供ができたのか?
それは、古事記でいう国譲り事件の時に飛騨王朝(高天原)からヒルメムチ命(天照大神)の長男である菩比命(ホヒノミコト)を出雲に派遣させたが三年経っても帰って来なかったと言う時期である。
(詳しくは、古事記の国譲りとは出雲を飛騨に『お返しした』が正しい)
縁談のもつれを解決するために出雲に降りた菩比命(ホヒ命)は、オオクニヌシが新羅に渡っている事を知らず、三年も探し待っていたが会えなかった。
(飛騨の口碑から)
『古事記現代語訳』にはこう書かれている。
思兼(オモイカネ)の神及び多くの神たちが相談して、「菩比(ホヒ)の神を遣ったらよろしいでございましょう」と申しました。
そこで、ホヒの神を遣わしたところ、この神は大国主命に諂(へつら)いついて三年たっても御返事申し上げませんでした。と・・・
古事記は、ホヒ命(のみこと)がオオクニヌシに諂いついて(諂う=おべっか)と書いている。
古事記には、オオクニヌシがシラギの女に生ませた子供や子孫達によって、出雲に都合の良いように書き、飛騨王朝による建国の史実を一切書かなかった。
今回は、オオクニヌシが新羅(シラギ)の女との間に出来た子供達がどうして古事記編纂に影響を与えるほどの力を持ったのか?
その始まりを解くカギが出雲神事に隠されていました。
山本健造原著/山本貴美子著『暴かれた古代史』『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版から紹介したいと思います。
- 「爪剥際(つまむぎさい)」は幽閉所の様子
- 「歯固め(はがため)」とは、ホヒ命を殺したときの様子
- 「百番の舞」とは、ホヒ命を殺す前に詫びを入れさせた様子
- 「釜の神事」とは、ホヒ命を煮て食べた・・・
- 遺骸を絶対に見られたくない!「水葬」の始まり
- 「亀太夫神事」とは、ホヒ命の子孫たちを表現した
- 「神事相撲」とは、亀=出雲・鶴=飛騨(天孫)のこと
当ブログは、下記と同意見であります
古代史はお伽話化されています。
二千年前の事がお伽話であろうはずがなく古代史を誤魔化して隠した者がいたのです。
ところが表向き歴史をかくし、そして神事の中に真実の歴史を残したのです。
それに気づき解読して本書に書きました。
私流に解読したものです。
本文中に断定しているような箇所がありましても総て推定です。
本書は過去の歴史であり現在のどの社も、宗教も、どのお方とも関係がありませんのでお断りをしておきます。
(山本健造原著/山本貴美子著 2010『暴かれた古代史』福来出版 まえがき~引用)
「爪剥際(つまむぎさい)」は幽閉所の様子
「国おかえし」の談判が稲佐の浜に仮の小屋を作り行われました。
こうして出雲はオオクニヌシにかわって天照大神の息子のホヒ命が治める事になり、わずかな兵士を見張りに残して大軍は飛騨(高天原)へ帰っていきました。
飛騨王朝はこの直ぐ後に筑紫平定という大仕事をひかえているため、大軍を残す事が出来なかったのです。
オオクニヌシに対して飛騨王朝は寛大な配慮をしました。
それが、10年あまりで出雲につけ入られ二千年の悔い(被差別部落を生む)を残す事になるのです。
オオクニヌシは飛騨王朝が造った幽閉所ですっかり観念していました。
余談ですが後に、幽閉所は『ソの宮』となり、さらに『出雲大社』へと移動しました。
『ソの宮』とは、はイソタケルの「ソ(曾)」であり新羅の「ソ氏」の宮ということであり、「曾(ソ)」から来た神が肥られている宮なのです。
また、オオクニヌシの料理は飛騨から行ったクシヤタマが受け持ち大変親切に接したと飛騨の口碑に残ってます。
「爪剥祭」は身逃神事の翌日に行われます。
古くは爪剥・ツマムギのお供えといわれていました。
塩、稲穂、瓜、茄子、根芋、大角豆、水の七種の神饌を供え、魚鳥などの生臭物を含まない精進物だけをお供えして行われます。 (『出雲大社』)
この祭が何を意味しているのか定かでないといいます。
筆者はこれはオオクニヌシの「爪を剥ぐ」ことであったと思います。
オオクニヌシは妻子がありながら地方の豪族の女を次々と妾(めかけ)にしたのです。
国と国とが仲良くしていく手段に使ったのですが、結果、オオクニヌシの爪や牙にひっかけられた地方豪族の娘達が泣かされて親も娘も怒り出したのです。
幽閉所のオオクニヌシの色気の爪を剥ぐためには魚鳥などの精力のつく食事ではなく、爪を剥ぐ精進物(野菜)を提供したのです。
オオクニヌシは早い話女狂いをして国を奉還して幽閉されたのです。
それがもう女を求めて出歩くことはできないのです。
オオクニヌシの爪を剥げ、幽閉の独り身の食事には精進物を、と揶揄(やゆ)したのです。
実際に料理方は魚、鳥などをあまり料理しないように野菜ばかりを使うように気を配ったのかもしれません。
オオクニヌシの爪(女癖)を剥ぐと揶揄したことが爪剥祭として残っていると思われます。
それから『出雲大社』に、天神地祇(てんじんちぎ)を祭る行事の用器に、他の時と異なって瓢箪(ひょうたん)を切半(せっぱん)せるものを使用する例となっている……
その瓢箪を爪剥祭にとくに用いるということも、必ずふかい意味があるにちがいない、と書かれています。
幽閉所でのオオクニヌシの食事の器には、瓢箪の切半したものを使ったようすがうかがわれます。
土器はときに凶器になるので使用せずにかわりに瓢箪を使ったと思われます。
オオクニヌシは大勢の女達を泣かせ悲しませ、その親達を怒らせて、爪剥とまで揶揄されて、後々まで葦原醜男(あしはらしこお)つまり日本中で一番醜い男と大評判になり笑われました。
(原著/山本健造・山本貴美子著「裏古事記ねじれねじれて二千年」福来出版から引用)
オオクニヌシが、大勢のシラギの女に生ませた子供達が、のちに出雲に来て天孫族をエッタに落とした
父親であるオオクニヌシを幽閉した飛騨王朝を逆恨みし、オオクニヌシの子孫が大勢いたために勝つことができず、下記に書いたような事をしでかしたのです。
- シラギ神崇拝教という宗教を作り、本来祀られている社(やしろ)の祭神をシラギ神にすり替えた。
- 尊称をすべて、オオクニヌシにすり替えてしまった。
「大己貴命様(オオナムチノミコト)」とは、人格者である「天照大神=ヒルメムチ命」のことである。
また、ニギハヤヒは天照大神の孫で大和を開拓された事から「大国玉神(オオク二タマノカミ)」「大国魂神(オオクニタマノカミ)「大物主神(オオモノヌシノカミ)」として祀られていました。 - 皇位を狙い、『古事記』には出雲が国を造ったかのように書き、飛騨王朝による建国の功労を神話化しボカシて書いた。
- さらに、天皇を貶めるための『日本書紀』には、天皇の悪口を書いた。
- 飛騨から降りてきた子孫(天孫)をいじめていじめて被差別部落に落とした。
幽閉されたオオクニヌシは日が経つにつれて、父スサノオがスセリ姫を正妻にすることを猛烈に怒ったことなどを思い出し、後悔し、天照大神の偉大さ、飛騨人の心のやさしさ温かさを感じたと思います。
オオクニヌシは何年くらい幽閉されていたのでしょうか。
十余年は経ったのでしょうか。
オオクニヌシは「幽閉所」で多くの女達とその子供達をしのびながらこの世を去りました。
(原著/山本健造・山本貴美子著「裏古事記ねじれねじれて二千年」福来出版から引用)
「歯固め(はがため)」とは、ホヒ命を殺したときの様子
オオクニヌシの死はすぐに子供達に知らされ、葬式が滞りなく済みました。
筆者はホヒが殺されたのは葬式の直後であると思います。
出雲大社の奇妙な?神事がそのときの事を物語っているようにみえます。
(神事は出雲大社由緒略記参照)その神事とは、
まず「歯固め」の儀式といって「海獣の皮」がしかれます。
その「海獣の皮」の敷物の上に小石が二つ入っている土器と箸をそえた膳を載せ、国造(こくそう)は土器を持ち箸で石を食べます。
石を国造が噛むのです。
「この儀式は国造の長寿を祈念して行われる」と言います。
この神事はオオクニヌシの葬式の後にオオクニヌシの大勢の子や孫達の親族との会食の時、ホヒが箸をとり、茶碗をとって食べようとすると、何とホヒの茶碗の中だけは石です。
「これはどういうことか」
「ホヒ様の長寿を祈る出雲のしきたりです」子供達は美味しそうに食べて飲んでいるのです。
その時です。
それまで従順に従っていた子供達が急変したのは。
それまで無念の思いをジーッとこらえて隠して表面だけ従順にしてきたものが堰(せき)を切ったのです。
大勢の子供達がボロクソにホヒをののしり悪態を突き始めました。
「しまった!」驚いたのはホヒです。
会食はホヒを守る家来たちははずされて身内だけでありオオクニヌシの従兄弟であるホヒ一人が参加したのです。
油断したのです。取り返しがつかないのです。
大勢のオオクニヌシの子供にとり囲まれて、剣さえチラつかせているのです。
ホヒは言われるままにする以外、なすすべがありませんでした。ホヒが何をさせられたのか、次の神事が物語っているのです。
「百番の舞」とは、ホヒ命を殺す前に詫びを入れさせた様子
「葉の二、三枚ついた榊(さかき)の小枝に白紙をまいたもの」を国造が両手にもって百度の拝礼を行う儀式です。
その舞は微音で古伝の唱語をとなえ、出仕(しゅっし)はこの間琴板(かんこといた)を打ち鳴らしつつ神楽歌を前の五十番には「ああああ、うんうん」後ろ五十番目には「皇神(すめがみ)をよき日にまつりしあすよりは、あけの衣をけ衣にせん」と唱うのです。
舞というと優雅な舞を連想しますが、拝礼をするのです。
この「百番の舞」について千家氏は『出雲大社』のなかで神に捧げる舞ではないことは明らかである、といっています。
神に拝礼をするのでないなら一体誰にするのでしょうか、百回もの拝礼を。
これはオオクニヌシの子供達にホヒが謝らさせられた事と筆者はみています。
榊(さかき)はたくさん葉がついていますが、二、三枚つけるとは、何度も謝らされているうちに、葉がちぎれて落ちてしまった、というより葉がちぎれて落ちるほど何度も何度も立ったり座ったりして謝らされた、ことを意味していると思います。
拝礼というもののまるで舞いを舞っているかのようにフラフラになるまで謝らされたのです。
さらに神事では「あすよりは、あけの衣を、け衣にせん」と琴板をならしてうたうのですが、け衣とはふだん着のことです。(『出雲大社』)
これはホヒ命が出雲の統治の権限を剥奪されたこと「自分は統治の権限をお譲りします。そして明日からは普段着を着て普通の人になります」と宣言させられたのです。
そのことを意味しているのです。
出雲を統治したことを謝らされ、明日からはけ衣(普段着)になります、と言わされて、それを百度とは数え切れないほどという意味です。
数え切れないほどフラフラにヘトヘトになるまで手に持っていた榊の葉が散って二、三枚になってしまうまで立ったり座ったりして頭を下げて謝らされたのです、拝礼させたのです。これを「百番の舞い」という優雅な言葉におきかえているのには恐れ入ります。
言われるままに、ホヒ命は一人一人に土下座して謝りました。
何度も何度も頭を下げて謝らされました。
ホヒ命はオオクニヌシの子供達にさんざん頭を下げて詫びさせられ、統治権を剥奪されて吊るし上げられたのです。
そして最後にホヒは…殺されたのです。
ホヒが殺された後何が起きたのか、この後の神事が物語っています。次、
「釜の神事」とは、ホヒ命を煮て食べた・・・
禰宜(ねぎ)が竹の棒の前に瓶子(へいし=酒を入れるカメ)を後ろに稲束(いなたば)をくくりつけたものを肩に荷い、青竹を杖にして神釜の回りを三回「あらたのし、あらたのし」と賀詞(いわい)のことばを唱えながらまわります。
国造(こくそう)は座っています。
千家氏(せんげし)は『出雲大社』のなかで「釜の神事について大庭の神魂神社(かもすじんじゃ)では “ホヒ命が天降る時に乗ってきた”という。
したがって換言すればこの釜でホヒを招くのであろうか」
といっていますが…
釜に入るのは「ホヒ命」である、という推察は同じですが、筆者はこの釜でホヒ命は「煮て食べられた」ことを物語っていると思います。
ホヒ命にさんざん謝らせて政権を譲ると言わせてその挙げ句、ホヒを切り刻んで、釜で煮て食べたのです。
ホヒ命を切り刻むときに、獣の皮を敷いたのです。
「歯固め」の儀式の時に「海獣(かいじゅう)の皮」がしかれることについて、千家氏は元来真菰(まこも)・荒菰(あらこも)が敷かれるのが通例であるのに、何故「海獣の皮」が敷かれるのか解らない、何かの深い意味がひそんでいると考えられる、といっています。
植物で作られている真菰・荒菰の上でホヒを調理すれば、血液などが染みて床が汚れるのです。
床を汚さないために「海獣の皮」を敷いたのです。
「海獣の皮」の上でホヒを切り刻んで、釜に入れて煮て、酒を飲み、御飯を食べて大宴会をしたのです。
かつて取り上げられた統治権を奪ったのです。
敵の代表のホヒを煮て食べるほど、これほど美味しく、ゆかいでうれしいことはなかったのです。これほど美味しい酒はなく、これほど美味しい御飯はなく、このときほど嬉しいことは人生にはめったにない嬉しい記念すべき大宴会であったのです。
出雲の政権を乗っ取った子供達は「あらたのし、あらたのし」と酒を飲み大ふざけをして大喜びしたのです。
そしてこの記念すべき大宴会を神事にして残したのです。
それが「釜の神事」なのです。
(原著/山本健造・山本貴美子著「裏古事記ねじれねじれて二千年」福来出版から引用)
遺骸を絶対に見られたくない!「水葬」の始まり
葬式すらなし?
一晩中飲んで食べて騒いで眠った翌日、太陽が高くなった頃に目が醒め、酔いも醒めた時に目に入った物はホヒ命の遺体というより無惨に散らばっている骸骨でした。
さて、ホヒ命の死をどうつくろうか、皆で考えたのです。
通常の葬式をすることができないのです。
これを何とかしなければならないのです。
しかも時間がないのです。
土中に埋めるわけにもいかないのです。
万一疑われて掘り返されたら食べたことがバレるのです。
そうして思い付いたのが、どぶ池に重しをつけて沈めることだったのです。
そうです。
水葬です。
何と言うことでしょうか!
こうしてオオクニヌシの子供達はホヒ命の死を水葬にして何とか取り繕ったのです。
飛騨から行った人々はホヒ命の死を「変だぞ」と思いながら、恐ろしいので黙ってしまったと思われます。
その時代、人が死ぬと飛騨でも出雲でも、親族が集り悲しみの別れをした後、鄭重(ていちょう)に人の踏まない処に埋めてねんごろに弔ったのです。
遺骸はつねに一番身近な親族が大切に運ぶのです。
遺骸を牛の背に乗せて運ぶなどとはもってのほかです。
これは大罪人の扱いです。
しかも「池に水葬」「墓がない」のです。
さらに国造が亡くなるとただちに次の国造になる儀式に神社へ向うのです。(『出雲大社』)これは遺骸を遺族にさえも、誰にも見られたくなかったのです。
絶対に見せることができなかったのです。
ホヒ命の遺骸を遺族も他の誰一人も確認もできず、葬式をすることすらできなかったのがホヒ命の葬式であったのです。
それが代々受け継がれたのです。
ホヒ命を殺したこと、そして食べたこと(?)を絶対に飛騨にだけは知られたくなかったのです。これが後々まで伝統として続いたのです。
こうしてオオクニヌシの子供達はホヒ命を殺し、ホヒ命のまだ若い息子を国造(こくそう)にして実質、政権を奪ったのです。
「国造は永生であるから墓がない」などとうそぶいて、遺骸を家族に見せずに池に放り込んでおいて、ホヒ命が死んだことを喜び、自分達にとって都合のよい若い国造の誕生を喜んだのです。
ホヒ命から始まった水葬が、代々受け継がれて、江戸時代まで伝えられて、行われたというから驚きのほかありません。
この水葬はホヒ命の後の国造がオオクニヌシの子供や子孫達にとって都合が悪ければ、あっさり殺してホヒ命と同じように池に沈めて代替わりさせるにはまことに都合のよい方法であったに違いありません。
『出雲大社』に書かれていた
『出雲大社』に次のように書かれています。
「国造(宮司)が死去すると後継者はただちに他所で神事を行う、終わった知らせが入ると、亡くなった前国造は、小門から、赤い牛に乗せて運び出し、杵築(きづき)の東南の池に水葬する事になっていた」と。
さらに江戸時代に書かれたものに「国造の父が死しても、その族は泣く者なく、子は父の葬に会うことなく、喪に服することもない」と。
筆者はここを読んで、体中の力が抜けるほどショックを受けました。
ホヒは殺されたのです。
そして池に捨てられたのです。
「亀太夫神事」とは、ホヒ命の子孫たちを表現した
「歯固め」「百番の舞」「釜の神事」の神事はホヒ命が殺されて食べられるまでですが、その後の「亀太夫神事(かめだゆうしんじ)」は、
ホヒを殺した以降のホヒの子孫たちの立場を神事が示していると思います。
神主が熊野大社にお供えをさしだすと、熊野の神人(じにん)から粗末な餅を調理してきてはもうしわけないことではないか、と注意をうけるのです…
国造はとにもかくにも、お供えして頂かなければならないから、平身低頭して先方の言葉に逆らわないように答えるのです。
亀太夫(かめだゆう)とは熊野の神人(じにん)のことである。
国造(ホヒの子孫)が熊野大社に参向してこの祭典を執行します。
国造は出雲の統治者ですから熊野の社人(しゃじん)から文句を言われる筋合いがないのです。
それが口やかましく苦情を言い立てられる悪態祭です。
これはホヒが殺された後、表向きホヒの子供が後継者になりましたがすっかり立場が逆転してしまったことを物語っているのです。
次、
「神魂神社(かもすじんじゃ)」に詣(もう)でる
「きよめ」をすませてから拝殿で「三十三度の祓(はら)い」をおこなって昇殿する。
大床では「三十三度の拝礼」をなし、内陣にすすんで「百度の拝礼」を榊(さかき)の小枝をもっておこなう。
熊野大社と同じく神楽歌を唱う。
これはオオクニヌシの子供や孫のいる親戚を回って詫びを入れさせる事を意味していると思います、それも百度、三十三度の拝礼ですから土下座の詫びでしょうか。
ホヒはもう亡くなっているのですから、ホヒの子孫がホヒになりかわってオオクニヌシの子供や親戚に詫びを入れたことを象徴していると思います。
次、貴船社を拝礼して「神事相撲」に移ります。
「神事相撲」とは、亀=出雲・鶴=飛騨(天孫)のこと
「神事相撲」に移ります。
力士は鶴山と亀山で、鶴山が新国造にお酌をして、その後、相撲をとる。
これで最後です。
相撲力士の亀山は、亀甲は出雲大社の紋ですからオオクニヌシの子供達、出雲のことです。
鶴山は新国造にお酌をしますから、飛騨(天孫、古神道)を意味します。
この相撲はどちらが勝つのか、神事では勝ち負けを言っていません。
しかし勝負はあったのです。
鶴は千年、亀は万年。
鶴の治世は短かかった、亀の治世は長いぞ、亀が勝ったぞ、とホヒの子孫の新国造にしっかりと見せつけたのです。
この神事相撲はホヒを殺して出雲政権を乗っ取り、それからずっと後に大和で出雲が宗教で勝ち大和朝廷をある意味で押さえるのです。
それを象徴して後に神事にして付け加えられたと筆者は見ています。
(原著/山本健造・山本貴美子著「裏古事記ねじれねじれて二千年」福来出版から引用)
まとめ
出雲の社(やしろ)は歴史を神事にして残した
歯固めからはじまる一連の神事、何故こんなことを神殿で行うのか?
これは自分達(シラギの女が生んだ子孫)にとって最も嬉しい記念すべき歴史なのです。
この歴史を神事の形にして残し、神事を繰り返して喜び、話して喜び、繰り返しては喜び、また子孫に伝え子孫が神事を行うのを見て喜び、繰り返して喜んだと思われます。
『出雲大社』にはこの一連の神事が祭の眼目であると書かれています。
この神事を行うために祭をして喜んだのです。
コトシロヌシを祀る美保神社に「国おかえし」が、出雲大社には「国のっとり」の様子が神事となって残され、まさに歴史を神事にして残したことは書いてきましたが、筆者は飛騨の口碑の立場からこれらの神事が何を物語っているのか、その意味が読めてきたのです。
(筆者の推測です)
(原著/山本健造・山本貴美子著「裏古事記ねじれねじれて二千年」福来出版から引用)
当ブログは、下記と同意見であります
古代史はお伽話化されています。
二千年前の事がお伽話であろうはずがなく古代史を誤魔化して隠した者がいたのです。
ところが表向き歴史をかくし、そして神事の中に真実の歴史を残したのです。
それに気づき解読して本書に書きました。
私流に解読したものです。
本文中に断定しているような箇所がありましても総て推定です。
本書は過去の歴史であり現在のどの社も、宗教も、どのお方とも関係がありませんのでお断りをしておきます。
(山本健造原著/山本貴美子著 2010『暴かれた古代史』福来出版 まえがき~引用)
コメント
はじめまして、昨年の相撲のごたごたがきっかけで、いろいろ調べている内、こちらにたどり着き、数冊本を購入させていただきました。まずは、ダイジェスト版でふりがな、イラスト付きの日本のルーツ飛騨、裏古事記ねじれてねじれて二千年を読んでいるところです。周りの人にどんどん紹介したいと思っていますが、どうしても気になることがあり、こちらにコメントさせてください。
高天原は本来「たかあまはら」だったのを出雲勢力が「たかまがはら」マガ→曲と読まされているのではないでしょうか?子供のころから、祝詞になじみがあり、自然に、たかあまはらと読んでいたので、とても気になります。また、天孫は本来「あめみま」と読むのを出雲側の不敬の呼び名「てんそん」→転損、と読まされているとこれは他のブログで読みました。ふりがな付きの本を読んでいるので、その文字が出てくる度に気になります。
okimik 様
コメントありがとうございます。
相撲から裏古事記にたどり着くとは、驚きました。
さらに、周りの人に紹介したいとの事ありがとうございます。
本も購入されたとの事ですね。
さて「高天原」の件ですが、本来「飛騨(ひだ)」と書かなければならない所を「高天原」とワザとボカして書いた古事記や日本書紀を書いたのは
シラギ神崇拝教(後に、出雲教となる)の人たちだと推測しています。
日抱御魂鎮めが良くできて、先を見通す神通力を備え国造りを始めた、初代大淡上方様(今上天皇に繋がっている)は、飛騨の籏鉾の奥に出られました。
15代淡上方様の代では、気候変動により雪の少ない飛騨の宮村に都を移す決心をされました。
35代目が天照大御神(ヒルメムチ命)です。
ヒルメムチ命が生まれた時には、出産の時の胎盤(えな)を埋めたところが現在の荏名(なえ)神社の辺りで高山市江名子町として地名を留めています。
飛騨と言う呼び方は、いつだれが始めたか分からないほどの大昔から行われていた日抱御魂鎮め(ひだきのみたましずめ)をする所を指して「ひだ」と言ったそうです。
天津神が住んでいるとされた場所のことを「高天原」と言うのであれば本来は「飛騨」となるわけです。
なぜ、ボカして神話にしたのか?
なぜ、建国の功労者(天孫)の事が伝わっていないのか?
詳しくは、「暴かれた古代史 二千年の涙」を繰り返し読んで頂きたいと存じます。
「裏古事記 ねじれねじれて二千年」のまえがきにも書かれていますが、『記紀』が編纂された時にはすでに日本古代史は消されていたと推測できます。
『古事記』は中国から入った漢字の音で日本古来の言葉を写したために、長い間解読ができませんでしたが、江戸時代になり本居宣長(モトオリノリナガ)が20年の歳月をかけて解読したと、「日本のルーツ飛騨」最初のページに書かれています。
なので、読み方は解読者による所と長い年月の間にいろいろな読み方が出来上がったと私は推測します。
ちなみに「明らかにされた神武以前」には、高天原は数十カ所もあったとなっています。
その中で飛騨高天原が一番大きかったそうです。
さらに、「明らかにされた神武以前」には、高天原が飛騨である証拠として詳しく書かれています。
その中で、若彦の反逆事件を取り上げて、著者の山本健造先生は「高天原が飛騨の山奥であると『古事記』に書くのは、皇室の尊厳を冒すと考えていたのであろうと思われます。
それよりも、高天原は雲の上の方だ。大空から雲に乗って降りてきたくらいにぼかしておいたほうがよいと考えたと思われます。(P167)」と書いてあります。
okimik様が望んでいる回答とピントがずれているかもしれませんが、日本古代史はボカされて消されてしまい、本来祀られなければならない神々は消されてすり替えられているので、はっきりとした事は分からないと言う事です。
しかしながら、飛騨に伝わる口碑と記紀ではどちらが本当かを山本先生が全国を調べ著書として残してくれましたので大いに参考になるかと思います。
さて、「天孫」についてです。
以下、山本健造著『日本起源の謎を解く』福来出版P288から引用
『飛騨は山のふもとから見れば雲の上です。ですから高原(たかはら)であり、それを敬い尊んで高天原(たかまがはら)と呼んだのです。
高天原から降りて来た人々は、日本全体の事を案じ、身内の者を危険な場所に遣わし、自ら進んで国難に当たったので尊敬され、天孫子(あびこ)と呼ばれ、飛騨より国造りのために下山した人を漢字が伝来してからは天孫(てんそん)とよびました。
また、天孫が地方に降臨して地方政権を樹立して、そこを高天原と称したと思われるところが全国に多いようです。
その中の大和(やまと=奈良)にゆき政権を樹立した直系の血統が国をまとめる中心となりましたので「天孫降臨」といえば邇邇芸命(ににぎのみこと)の御降下(ごこうか)だけに使われるようですが、大昔は外の地でも使われたようです。
琵琶湖の「山本山」や「鈴鹿」には天孫降臨の伝説が今尚伝えられています。
参考になれば幸いです。