日本人のルーツと日本起源について山本健造先生は、若かりし頃に若田翁と出会い、翁の家に代々伝えられた先祖からの言い伝えを託されました。
それは飛騨の古代史ですが、大和朝廷以前の歴史であり日本の古代史でした。
山本は後年、その口碑にもとづいて全国を調査し、山本貴美子先生はその供をしました。
そして山本健造先生は『日本古代正史とその思想』(改訂版『明らかにされた神武以前』)『日本起源の謎を解く』を著しました。
それ以降もずっと調査を続けておりました。
或る年の暮れも押し詰まったある日、高野山の帰りに大和へ入り橿原市、飛騨町に立ち寄りました。
なぜなら飛騨の口碑では、飛騨から大勢の若者が大和へ降りて行って「神武天皇をお守りした」と言い伝えられているから。
また、大和の飛騨町には「先祖が飛騨から降りてきた」と言い伝えがあるからです。
ところが、大和の飛騨町があろうことか被差別部落に落とされていることを知り驚いたのです。
なぜ?・・・家へ帰ったその夜、山本健造先生・貴美子先生の二人は「なぜ飛騨から降りて行った人達がエッタに落とされねばならないのか」を考えました。
そして、ついに九時頃、「そうだ!飛騨を恨んでいたものは出雲だ!」と、気がついたのです。
建国の功労者の最も尊い方々の、最も敬われて感謝されねばならない方々の子孫たちがこともあろうにエッタに落とされていたのです。
今回は、これから詳しく紹介するカテゴリーの全体像を紹介します。
- 「天皇が被差別部落に落とした」は大間違いである
- エッタ・穢多(エタ)・ヒエッタとは、飛騨を名指しした言葉だった
- ”天孫”とは、飛騨から「分家」した一族、”降臨”とは、飛騨からの民族移動を意味する
- 『古事記』は、七一二年に出雲思想の中で編纂された
- 『古事記』は、出雲が都合の良いように書き、高天原とは何処かを書かず
- 『日本書紀』は、シラギ神崇拝教の教義として書かれたものである
- シラギ神崇拝教・出雲教が、皇位を奪おうと『日本書紀』に天皇の悪口を書いた
随時、山本健造原著/山本貴美子著 2010『暴かれた古代史』福来出版を細かく紹介していきます。
大勢の方が、日本の歴史としてこういう事があったのかと思い飛騨の「天孫宮」にお詣りすることを願っています。
当ブログは、下記と同意見であります。
古代史はお伽話化されています。
二千年前の事がお伽話であろうはずがなく古代史を誤魔化して隠した者がいたのです。
ところが表向き歴史をかくし、そして神事の中に真実の歴史を残したのです。
それに気づき解読して本書に書きました。
私流に解読したものです。
本文中に断定しているような箇所がありましても総て推定です。
本書は過去の歴史であり現在のどの社も、宗教も、どのお方とも関係がありませんのでお断りをしておきます。
(山本健造原著/山本貴美子著 2010『暴かれた古代史』福来出版 まえがき~引用)
「天皇が被差別部落に落とした」は大間違いである
『古代天皇陵をめぐる』(藤田友治と天皇陵研究会著 三一書房)によれば「神武天皇陵は被差別部落の洞村(ほらむら)にあったのです」とあります。
また『天皇陵の真相』(住井すえ・古田武彦・山田宗睦共著)のなかで、古田氏は「早稲田大学の研究会で作られた部落の分布図がありましてね、日本列島の、それを見て驚きましたね。
私が平生教えている古墳の分布図とそっくりなんですよ」
「つまり、天皇様と部落というものは切っても切れぬ深いかかわりがある、というふうに考えているわけです」とあります。
また住井氏は「この時にね、また天皇陵がめっかったと、まためっかったんだと、学校で噂が出るわけです。
それがどこも未開放部落なんです。
つまりエタ部落でめっかったの。
エタ部落には粗末ながら小さい前方後円墳があったんです」と言っておられます。
ある虐げられた人から次のようなことを聞きました。
「ある被差別部落では明治維新まで、どこの家でも提灯を準備して、枕元に草履を置いて寝て、御所に変事あらば直ちに駆けつけることになっていた」と。
またある人は
「御所で何かある時は来てくれと言われ、御所とは親戚づきあいのようなものであったと古老が言っていた」と。
またある被差別部落の方は
「天皇の輿を担ぎ、天皇御大喪、御大典(即位式)も大正まで勤めた。
また明治維新で天皇が東京へ行かれた時、ある被差別部落の人がお供をした。
その時天皇は時々降りて歩かれた。
沿道の人が無人の輿に恭しく頭を下げるのを天皇は輿の後ろから笑って見て歩かれた」と。
天皇の御大典や御大喪に輿を担ぎ、御陵をお守りする、これはもう近親者の役目です。
大事な父母のお墓を守ってくれと信頼して頼めるのは、やはり近い身内です。
天皇の御陵の周りに奴隷や罪人の居住を許すはずは絶対にありません。
万一天皇が被差別部落を作って虐げたのなら虐げた人達に、とても危険で輿など担いでもらえないし、蘇我馬子の石舞台古墳が荒らされたように、御陵など長い間にすっかり壊されて消えてしまっていたと思います。
虐げられた人々は天照大神や歴代天皇の近いお身内ですから、天照大神や天ツ神を守り抜き天皇や御陵を守り抜いて被差別部落に落とされたのに、歴史が忘れられて逆に「天皇が被差別部落に落とした」などと言う人さえ出てきました。
もし「天皇が被差別部落に落とした」のなら都から遠くに離れた外に被差別部落を置かないと危険ですが、特に御所や御陵の近くにあるのです。
(山本健造原著/山本貴美子著 2010『暴かれた古代史』福来出版 P370~引用)
エッタ・穢多(エタ)・ヒエッタとは、飛騨を名指しした言葉だった
何故、飛騨(高天原)から降りて大和を開拓した尊い方々の子孫達が被差別部落に落とされエッタと呼ばれなければならないのかを理解するためには、「託された口碑」を一度読んで頂き史実を知る必要があります。
ここでは、補足しながら簡単に「託された口碑」の記事内容を要約してみます。
【古事記神話より正確に日本人のルーツが口碑として飛騨に伝わる】
【古事記より詳しい口碑、日本の国造りから見える精神文化】
日本人は、淡山(現在の乗鞍岳)のふもと「丹生の池(にゅうのいけ」から生命が湧き進化し、もともと原日本人は日本にいた。
そして、池に太陽の光、月の光を浮かべてその光をジィ~っとみつめ、先祖と大自然に感謝して心を鎮める行事を誰が何時からとなく行っていた。
これが日本人の精神文化のルーツである。
朝夕に、日を抱くように行われたことから「日抱御魂鎮(ひだきのみたましずめ)」といい、それが日抱(ひだき)・日抱(ひだ)と呼ばれさかんに行われた。
気候の変化や自らによって、大勢の人が飛騨から降りて日本中に拡がり、自分たちの故郷を「日抱きをするところ」と呼び、後に「ひだ(飛騨)」と言う地名になった。
(飛騨に伝わる口碑より)
【日本神話を裏古事記で読むと史実となる】
今からおおよそ2500年前、「日抱御魂鎮」によって心を鎮めると、念じて病気を治したり、遠くの事がありありと見えたり、さらに近未来が見えてくる神通力が誰よりも素晴らしく皆から敬われていた、大淡上方様(おおあわのうわかたさま)がでられる。
大淡上方様の透視では、いずれ海を渡って異民族が来る。
大人しい日本人に暴力をふるい暴れて侵略してくることが解ったため、防衛策として本家と分家と言う仕組みを考え国造りを始めた。
大淡上方様から代々、国造りをはじめ35代皇統命のヒルメムチ命(天照大神)の代には、古事記でいう大八島に防衛のための見張り所ができ国らしく纏まってきました。
歴史が曲げられた原点 譲るとお返し
【古事記の国譲りとは出雲を飛騨に『お返しした』が正しい】
ヒルメムチ命(天照大神)の時代には、国内に30数カ国の国がありました。
その中で最も大きな国が飛騨であり2番目が出雲です。
国防のためには、出雲と協力しなければならないので飛騨と出雲は四重の政略結婚を結ぶ固い約束をかわしました。
出雲の後継者、大国主命(おおくにぬしのみこと)が固い約束を破った事が原因で、もともと飛騨国の意宇の国(おうのくに=出雲)を大国主命が預かって統治していた統治権を剥奪(はくだつ)し、逃げられないよう高く造った建物に幽閉したのです。
これが古事記でいう「出雲の国譲り」の真相です。
大国主命は、現代で言う「女好き」で「葦原醜男(あしはらしこお)」と言うあだ名がありました。
『古事記』には妾(めかけ)20数名が記録され、181人もの子供がいると書かれています。
さらに、孫たちは数えきれないほどいます。
妾(めかけ)の子供達の中には、大国主命が大陸に渡って新羅(シラギ)の女との間に出来た子供たちがいるのです。
後に、シラギの子供たちが成長し日本に来て、「シラギ神崇拝教」と言う宗教を作り、あらゆる手段を使って飛騨(天孫)にしっぺ返しを図り、さらに皇位を奪おうと狙ったのです。
しかし、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と藤原鎌足(ふじわらかまたり)が、蘇我入鹿(ソガイルカ)を斬り付け殺すと言う勇気ある行動で日本が、皇室が守られたのです。
蘇我滅亡後も、ヘビの様に執念深いシラギ神崇拝教は、出雲教に変身して飛騨(高天原)から降りてきた天孫の子孫を被差別部落に落としたのです。
”天孫”とは、飛騨から「分家」した一族、”降臨”とは、飛騨からの民族移動を意味する
【古事記の天孫降臨とは国を忠誠心で護った日本古代正史だ!】
【古事記の嘘、ヤマノフモトへ天孫降臨・筑紫へ遠征・神武御帰還・が正しい】
35代皇統命(すめらみこと)ヒルメムチ命(天照大神)の時代、
出雲の国譲りと時期を同じくして、大きな問題を飛騨(高天原)では抱えていました。
ヒルメムチ命(天照大神)の夢見(近未来透視)で、筑紫(九州)へ異民族が海を渡って来て暴れ元々住んでいるおとなしい人たちを殺している様子でした。
二つの異民族グループがお互いに争いこのままだと勝ち残った異民族がいずれ飛騨(高天原)まで侵略するのは確実であると。
飛騨(高天原)では、現在の飛騨高山の安川原に集まり思兼命(おもいかねのみこと=天照大神の夫)が議長を行いみんなで今後どうするかを話あったのです。
話し合いの結果とは、
- 異民族からの侵略を防ぎ、皆が幸せに暮らせるように、皆から敬われている皇統命(すめらみこと)を中心に日本を一つにまとめる。
- 飛騨は山奥すぎ、冬は雪が多くて国をまとめていくには身動きがとれないのでヤマノフモト(後に大和=畿内)に都を移す。
ヒルメムチ命(天照大神)の孫の饒速日命(にぎはやひのみこと)は近畿を開拓して、弟の邇邇芸命(ににぎのみこと)の帰還を待つ。 - 邇邇芸命を総大将として、早く筑紫(九州)を平定する。
平定後は、飛騨まで帰らずヤマノフモト(大和)に入って都を開き治めよ。
しかし、筑紫平定に30年余りも経って邇邇芸命の孫に当たるサヌの命(神武天皇)が大和へ帰還する。
ここまでが、日本人のルーツと日本起源が解る「託された口碑」の補足と要約です。
『古事記』は、七一二年に出雲思想の中で編纂された
『古事記』は40代天武天皇の勅命によって712年に編纂されました。
稗田阿礼(ひだのあれい)が口述し、太安万侶(オウノヤスマロ)が筆記したのです。
大和の人達は大和朝廷以降のことはよく知っているのです。
一番知りたいことは神武天皇以前のことなのです。
神武以前の歴史を語り伝えた人が稗田阿礼で太安万侶が記録したのです。
ところが肝心なところが隠されて書かれていないのです。
稗田(ひだ)の阿礼(あれい)とは、飛騨に居る阿礼さんということです。
飛騨に住んでいて飛騨の昔のことをよく知っている阿礼さんが大和へ招かれて口述したと思われます。
何故、飛騨なのか? それは大和朝廷の前身は飛騨王朝なのです。
天皇の父祖の地なのです。
大和朝廷以前の飛騨の歴史を聞きたいために、飛騨から語り部を招いたのです。
それが飛騨(ひだ、ひえった、ひった)から来た阿礼さん、稗田(ひだ)の阿礼なのです。
そして、片や、飛騨と出雲とのいきさつをくわしく聞くために、出雲の(オオクニヌシが居た)意宇の国から招いたのがオウの国のヤスマロ、オウ(意宇)のヤスマロです。
オウに太を当て字して、ヤスマロに安万侶を当て字して太安万侶なのです。
筆者はそう思います。
今、筆者は飛騨の口碑の立場から本書を書いています。
飛騨にはしっかり言い伝えが、つい数十年前まで残されておりました。飛騨から大和へ行った阿礼は飛騨の代表として口碑を正しくしっかり口述したに違いないのです。
それが『古事記』には書かれていないのです。
(山本健造原著/山本貴美子著 2010『暴かれた古代史』福来出版 P342~引用)
古事記は、出雲が都合の良いように書き、高天原とは何処かをワザと書かなかった
意宇の国から派遣された安万侶、つまり出雲側が筆記したのです。
阿礼の口述どおりに書かなかったのです。
出雲の都合の悪いことは書かなかったのです。
そればかりか出雲の都合のよいように書いてあるのです。
天皇の先祖の故郷が飛騨であることを書かず
天皇の先祖が飛騨国を作った国作りの話や歴史を書かず
飛騨から各地へおりて行って守ったことを書かず
天照大神が飛騨のスメラ命であることを書かず
スサノオが飛騨の人であることを書かず
飛騨国と意宇の関係を詳しく書かず
オオクニヌシとタギリ姫の縁談のもつれを書かず
九つに分かれていた出雲の一小国の意宇の統治権を奉還した理由を書かず
統治権の奉還を国譲りと書き
飛騨の大軍が控えており、統治権をおかえしせざるを得なかったことを書かず
統治権をおかえしした相手の国、飛騨を飛騨と書かずに高天原と誤魔化しオオクニヌシとコトシロヌシの幽閉を書かず
ニニギが筑紫(九州)へ平定に行ったことを海幸山幸などのお伽話にして誤魔化し平定後、孫の神武天皇がニニギの志を継いで約束どおりに帰ってきたことを書かず
ニギハヤヒの大和の開拓を書かず…
事実を書くと出雲にとって都合が悪いところは全部おとぎ話にして誤魔化したのです…
稗田阿礼は歴史をしっかり話したはずなのです。ところが書いてないのです。
太安万侶は縁談のもつれ、国奉還、幽閉、ニギハヤヒの大和の開拓、ニニギの築紫平定、平定後に大和へ帰ったこと等々を知っていたはずなのです。
知っていながら書かなかったのです。
稗田阿礼の口述も、出雲での出来事も、出雲に都合の悪いことは書かないばかりか、都合のよいように「ウソ」を書き、都合の悪いことはわざと誤魔化してわからないように書いてあるのです。
先祖の歴史をおとぎ話化して誤魔化したのです。
(山本健造原著/山本貴美子著 2010『暴かれた古代史』福来出版 P343~引用)
『日本書紀』は、シラギ神崇拝教の教義として書かれたものである
『古事記』から8年後に『日本書紀』が編纂されています。
大和はとうの昔にシラギ思想に覆われており、『記紀』編纂ころはシラギ神崇拝教から出雲教に、必死で変えようとした、変えたころです。
とにかくシラギ神崇拝教といっても出雲教といっても根は出雲です。
『記紀』はシラギ・出雲教思想におおわれたなかで、出雲を軸足にして、出雲に都合よく書かれています。
『古事記』より『日本書紀』のほうがより出雲の「ウソ」が多く入っています。
『日本書紀』はシラギ神崇拝教の教義を、出雲教の教義に上手に作り変えたようなものがたくさん入り込んでいます。
たとえば『日本書紀』に「オオクニヌシは大物主神とも国作大巳貴命とも言う…八千戈神ともいう。
その子は181人いる。
大巳貴命(オオクニヌシ)と少彦名(スクナヒコナ)が天下を作った」
「また現世の国民および家畜のためには、病気治療の方法を定めた。
また鳥獣や昆虫の災いを除くためには、まじないの法を定めた。
このため百姓は、今に至るまで、すべて生命力の発展をさせることができた」と。
さらに
大巳貴命(オオクニヌシ)が少彦名(スクナヒコナ)に
「我らが作った国はよく出来たと言えるだろうか」
「よく出来たところもあるが、ふできの所もある」と。
「このあと大巳貴命が一人でよく巡り作られた。
ついに出雲国に至って一体葦原中国はもとから荒れて広い所だった。
岩や草木に至るまですべて強かった。
けれども私が皆くだき伏せて、従わないという者はない」と書かれてあり、まるで出雲のオオクニヌシと少彦名が国を造ったかのごとくに書かれておりこれは出雲教の教義です。
昔は現在のように、コピーがあるわけでもなく、書物が大量に出回ることもなく、言葉でなんとでもごまかせるのです。
とにかくその「誤魔化し」「ウソ」の上手いこと、うまいこと、それはもう天才的です。
シラギ神崇拝教から出雲教に上手にすり替え、出雲教の立場が立つように『記紀』が書かれているため、『記紀』を頼りに古代史を見る日本中の人々は皆、出雲教の魔法にかけられてしまうのです。
天皇が朝鮮から来たと考える学者もいるようです。
また大和はオオクニヌシなどの出雲神が拓いたと考えている学者もいます。
歴史は勝った者がつくるのです。
ですから天皇や大和朝廷に都合良く書かれているはずと思いこんでいる人もいるようですが、これまで書いたように実際にはとくに『日本書紀』には天皇の悪口がいっぱい書かれているのです。
国を奉還した出雲が国を乗っ取り、さらに宗教で大和一の宮を乗っ取り、宗教で大和朝廷を押さえたのです。
実際に力を持っていたのは出雲の宗教であったのです。
『記紀』は出雲に都合のよいことを書き、都合の悪いことには触れず、事実をありのままに書かずにウソをいっぱい書き、書きたくないが書かねばならないことはおとぎ話にして誤魔化してあるのです。
大和朝廷が政(まつりごと)をになっていますが、実際の権力者は出雲であったのです。
現実がねじれているために歴史が謎に包まれてわからなくなってしまっているのです。
2千年前なんてついこの間のできごとで、ハッキリとわからぬはずがないのです。
最初はシラギ神崇拝教が民衆の心をとらえ、後には出雲教で日本をおおってしまったのです。
勝った者は出雲の宗教であったのですから出雲につごうよく歴史が書かれて当然なのです。
『出雲大社由緒略記』と『日本書紀』は似た事が書かれていることが少なからずあります。
ここまで謎が解けてくればしめたものです。
(山本健造原著/山本貴美子著 2010『暴かれた古代史』福来出版 P346~引用)
シラギ神崇拝教・出雲教が、皇位を奪おうと『日本書紀』に天皇の悪口を書いた
『日本書紀』には天皇のひどい悪口がたくさん書かれています。
少し紹介してみます。
19代允恭(いんぎょう)天皇の太子は木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)でしたが同母妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)と通じている、と占い者が言い軽大娘皇女は伊豫(いよ)に移されるのです。
そして允恭天皇亡きあと、木梨軽皇子は同母妹の軽大娘皇女と通じた淫乱とそしられて群臣が心服しなくなり、天皇の位につくことができないのです。
また大泊瀬稚武天皇(おおはつせのわかたけのすめらみこと)がまだ皇子であったときに、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)は反正天皇(はんせいてんのう)の娘たちをわがものにしようとされた。
この娘たちは皆おっしゃるのに「あの方は日頃から乱暴で恐ろしいお方です。
にわかにご機嫌が悪くなると、朝にお目にかかった者でも、夕方にはもう殺され夕にお目にかかった者でも翌朝には殺されます…」と書かれているのです。
このように皇子たちのひどい悪口が書かれているのです。
大泊瀬皇子が21代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)になられると、次のような記述があります。
簡単に書きますと…
天皇は自分の心だけで専決されるところがあり、誤って人を殺されることも多かった。
天下の人はこれを誹謗して「大へん悪い天皇である」といった。
また大工が石を台にして斧で木を削っている所へ、天皇がおいでになり「誤って石にあてることがないのか」と聞かれました。
大工は「決して誤りません」と答えると、天皇は女を呼ばれて、着物を脱がせてフンドシを着けさせて、皆の前で相撲を取らせられました。
大工はそれを見ながら木を削ったところ、斧を石に当て刃を傷つけてしまいました。
すると天皇は怒って、大工を処刑にせよと言われました。
同僚が大工を惜しんで嘆いて歌を唄ったら、許されました…と。
この話を、こんな風に見るとどうでしょうか。
ある天気の良い日、天皇が大工の大勢いる仕事場へおいでになりますと、大工が緊張します。
ご覧になると、あまり上手に削るので冗談に「美しい女がいると手元が狂わないか」と声をおかけになったのです。
この位のきさくな天皇です。と、それでおしまいです。
女を裸にして、フンドシを着けさせて、相撲をとらせ、大工の手元が狂ったら処刑、とはなんと下品で残虐な悪口でしょうか。
これは悪意のある、天皇を陥れんがためのとんでもない悪口なのです。
25代武烈天皇(ぶれつてんのう)の記述は、もっとひどいものです。
この天皇は、しきりにいろいろな悪事を行われた。
一つも良いことは修められず、およそ、さまざまの極刑をご自身で行われないことがなかった。
2年秋9月 妊婦の腹を割かれてその胎児を見られた。
3年冬10月 人の生爪を抜いて、山芋を掘らせた。
4年夏4月 人の頭の髪を抜いて樹の頂きに登らせ、樹の元を切り倒して、登った者を落として殺し、おもしろがった。
5年夏6月 人を池の中に伏せ入らせて、外に流れ出るのを三つ矛で刺し殺して喜んだ。
7年春2月 人を樹に登らせて、弓で射落として笑った。
8年春3月 女達を平板の上に座らせ、馬を引き出して面前で馬に交尾させた。女の陰部を調べ潤っている者は殺し、潤っていない者は官婢として召しあげたこれらは悪口のための悪口です。まだまだ続いています…
22代清寧天皇(せいねいてんのう)は、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の皇子ですが、子供がないのです。
播磨国(はりまこく)に市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の子の弘計(けお)と億計(おけ)の二人がいることを発見して宮中に迎え入れたのです。
後の23代顕宗天皇(けいぞうてんのう)、24代仁賢天皇(にんけんてんのう)です。
市辺押磐皇子は17代履中天皇(りちゅうてんのう)の皇子ですから履中天皇の孫にあたります。
大和には皇太子になれる資格のある人が大勢いながら、遠い播磨国に身を隠していた皇孫を捜して招かねばならないほど、皇太子のなり手がなかったのです。
シラギ神崇拝教は国人達が天皇や皇太子から心が離れていくように悪口攻めにしたのです。
そして25代武烈天皇の御代にその頂点に達したのです。
武烈天皇には子供がなく、ついに大和には資格のある人がありながら武烈天皇の皇太子になる皇子がいなくなったのです。
武烈天皇亡き後、26代継體天皇(けいたいてんのう)が即位されるのですが、天皇は越前にいた15代応神天皇の五世の男大迹王(おおどおう)なのです。
そして皇后は武烈天皇の同母妹の手白香皇女(てしらかのひめみこ)です。
武烈天皇は生前から次期天皇を男大迹王と決めておられたに違いないのです。
継體天皇(けいたいてんのう)は都を河内国交野郡葛葉の宮(大阪府枚方市樟葉)、山城の綴喜、山城国乙訓、大和の磐余の玉穂(奈良県桜井市池之内の辺)と転々と移しています。
悪口攻めを避けるために継體天皇は大和から離れて転々とされたのではないかと推定します。
そして最後に大和に帰り、次の27代安閑天皇(あんかんてんのう)を即位させられて、その日のうちに崩御されたのです。
ほんらいは天皇が崩御されてから次の天皇の即位なのですが、御自ら次の天皇を即位させて、その日のうちに崩御されたのです。
これはまったく異例のことです。
即位を邪魔されないようにされたのです。
即位を見届けて安心して崩御されたのです。
天皇や皇太子がさんざん悪口攻めにあって次期天皇である皇太子になり手がないくらいに皇位が脅かされるのです。
一体なぜこのようなことになってしまったのでしょうか。
10代崇神天皇(すじんてんのう)の御代に御諸山を乗っ取り11代垂仁天皇の御代に決定的に天孫に勝ったシラギ神崇拝教は12代景行天皇の御代にはシラギ神崇拝教の幹部の娘を天皇の側室に入れ、16代仁徳天皇の御代には天皇の皇后に送り込みました。
そして17代履中天皇の御代に蘇我馬子(ソガノウマコ)、入鹿(イルカ)の先祖である蘇我満智宿禰(ソガノマチノスクネ)が国政に携わるようになり、この頃から天皇や皇太子の悪口攻めなどが始まったと思われます。
そして21代雄略天皇の御代には蘇我満智宿禰の子の蘇我韓子宿禰(ソガノカラコ)が国政に携わっているのです。
シラギ神崇拝教がすでに国政に食い込んでいるのです。
天皇を中心とする国政の中枢に天皇の位を窺(うかが)って皇位の印である天照大神の御霊代の「八咫鏡」を奪わんとつけ狙っているシラギ神崇拝教の幹部が入り込んでいるのですから、たまったものではありません。
それはもう大変なことになっていたのです。
さらに民衆の信者を味方につけているシラギ神崇拝教は巨大な力を持ち、ある面では天皇よりいばっていたのですから、さあ大変なことになっていたのです。
(山本健造原著/山本貴美子著 2010『暴かれた古代史』福来出版 P276~引用)
まとめ
- 大国主命が飛騨(高天原)との約束を破った為、出雲(意宇の国)を飛騨にお返しになった。
大国主命には、新羅(シラギ)の女との間に出来た子供達が大勢いた。
シラギの子供や子孫が飛騨を逆恨みし、シラギ神崇拝教と言う宗教を流行らせる。
シラギ神崇拝教の力が大きくなると、飛騨(天孫)を祀っている社(やしろ)をシラギ神にすり替えてしまった。 - シラギ神崇拝教になびかず、天皇を守りぬいた天孫族(飛騨)を、「ひだ」「飛騨の山猿」「ヒエッタのやつら」と罵り、漢字が入ってから「穢(けがれ)」を当てて「穢多(えた)」と罵ったのです。
- 皇位を奪おうとした蘇我氏の「蘇」とは、「曾の宮(そのみや)」の「ソ」であり、「曾の宮(そのみや)」とはイソタケルのソ(曾)であり新羅(シラギ)の「ソ氏」の宮の事ですから、蘇我氏はシラギの人と推察できます。
- あわや天皇の位が蘇我氏に乗っ取られる寸前に、中大兄皇子と藤原鎌足の勇気ある行動で日本が皇室が守られたのです。
もうほんの少しで出雲のシラギ神崇拝教に天皇の位を取られてしまうところだったのです。日本が日本でなくなる取り返しのつかないことになるところだったのです。 - 蘇我氏滅亡後、シラギ神崇拝教から出雲教へと変身。さらに、シラギ神にすり替えた社をシラギ神と解らないように改名した。
- 古事記や日本書紀は、出雲思想の中で編纂され神話化・おとぎ話化されたために史実が解らなくなったのです。(しかし、飛騨に口碑が伝わっていました)
歴史が忘れられて、原因がなくなってしまっているのに、エッタをいじめる感情だけが残っているのです。 - 天孫のエッタへの転落は同時に天孫が祀った古神道の神々の抹殺であり、「天孫二千年の悲劇」はまさにニギハヤヒを始めとする「二千年の神隠し」でもあったのです。
エッタ問題は人権問題で解決されつつあるのですが、シラギ神・出雲神に追い出された古神道の神々は何ら問題にされることなく今なお隠されたまま続いているのです。あまりにも残念です。
どうか、飛騨に伝わる日本人のルーツを拡散して頂きたいと願っております。
本当の日本古代史は、世界に誇れる義理・人情で結ばれた素晴らしい歴史であると解ります。
思想国難の打開策として、是非私たちの先祖方の生き方、歴史を「託された口碑」から学びたいと願っています。
コメント
山本氏の著作を複数拝読しました。
それらによると、自分はアマツヒコネの子孫であり、
先祖は飛騨王国にいたことになります。
非常に興味深く思いました。
アマツヒコネ 様
コメントありがとうございます。
日本には、本家と分家というすばらしい関係があります。
本家と分家の関係が出来るキッカケは、初代大淡上方様(約2500年前)が日抱御魂鎮(精神統一)をしていた時に
大勢の異国人が海を渡って日本を侵略する事を予言したのがキッカケ。
どうしたら国を今まで通り、みんな仲良く幸せに暮らせることが出来るのかを考えた末、大淡上方様(天皇の血筋)を本家とし、長男・次男を分家として
氏を与え、三男を後継ぎとし海から異国人が来たらすぐに皆に知らせるように全国に見張り所を作りました。
第15代淡上方様の代までかかりました。
飛騨から分家して全国に広がり国を守ってきました。
日本人なら、ほとんどの人が先祖をたどると本家に繋がっていると思います。
アマツヒコネ様は、アマツヒコネの子孫であると推測いたします。
今後とも、ご活躍を楽しみに致しております。
追記。
五十猛の父は素戔嗚でしょうw
マクロス 様
コメントありがとうございます。
「五十猛の父は素戔嗚でしょうw」
日本書紀にはそのように書かれていますね。
しかし、
山本健造/原著 山本貴美子著『暴かれた古代史 二千年の涙』福来出版 P145~P147を読みますと
『五十猛(イソタケル)は少彦名(スクナヒコナ)の尊称で同一人物です。
このように『日本書紀』にはまるでシラギ神崇拝教の教義が書かれています。』と書かれています。
『このように』の内容は、「暴かれた古代史」を読んでください。
参考になれば幸いです。
そうでしたか・・
少彦名(スクナヒコナ)は事代主とも同一なのは知ってますか?
先住出雲族・向=富氏の口伝の祖、八重波津身は=事代主で=少彦名=恵比寿=蛭子=東夷で東北の蝦夷の民の祖に成ります。
富(東北の登美・鳥海)氏系氏族は、新羅渡来と富氏の末裔と成ります。
元々、南関東国造家は神門臣家の子孫の島族(百済系渡来人)の地でしたが
富氏系の能見宿禰の菅氏系の土師氏が神主・官職に成りました。
菅は素戔嗚のスサがスガと変じたものです。
素戔嗚=新羅で新羅系渡来で蝦夷なのでしょうね。
諏佐や蘇我も素戔嗚のスサが変じた名です。
出雲大社境内の素鵞社が蘇我姓の由来ぽいです。
マクロス 様
コメントありがとうございます。
マクロス様のご研究、参考にさせて頂きます。
話は変わりますが、令和元年に出版された
長浜浩明氏(作家・古代史研究家)の著書「日本の誕生 皇室と日本人のルーツ」WAC(ワック)から出版。
こちらの本も参考にして見てはどうでしょうか。
初めまして
わたしは、ルーツ探しを通して先住出雲族と
その子孫と古代日本史から近代まで考察していますが
先住出雲族は、始祖を国常立(クナト)大神=伊弉諾としていて
荒破吐神=伊弉冉はどうも縄文人か古代アイヌ人と見ているようです。
また、素戔嗚(帥升王説)も娘の櫛名田姫と夫婦に成った大国主なので
妻の父に成り血縁はありません。
新羅信仰(多分新羅神社信仰)は渡来出雲族=大和族(の祖が素戔嗚)なので
丹後国風土記の出雲国盗り合戦や出雲国譲りで奪われたに居続けた先住出雲族は
渡来出雲族の大和族に従う為、婚姻し、千家の祖、天穂日の系譜に組み込まれ
その始祖の素戔嗚=新羅明神を神社にし先住出雲族は同時に始祖の国常立(クナト)大神を
同時に祭っていますね。
天津神が滅ぼした国津神・大国主だと忠誠心を疑われかねないので・・
蘇我氏の件で
蘇我氏の祖の武内宿禰は先住出雲族では、先住出雲族、神門臣家の子としています。
日本書紀の斯摩宿禰=武内宿禰で=島津(志摩)国造家の島(直)氏だからです。
また、聖徳太子、蘇我稲目・馬子親子が崇敬したのは古神道ではなく
司馬達等の持ってきた仏教でした。
古神道の新羅神社などを庇護したのは対立した饒速日を始祖とする物部連等です。
蘇我入鹿が渡来と疑われたのは
蘇我馬子が司馬宿禰を名乗って居たからと大陸史観で軍備増強を入鹿の代まで続けたからです。
確かに、天孫がB民に成ったのは神武天皇(時代考証的に仲哀~応神天皇の時代)の饒速日討伐でしょうね。
仲哀~武烈天皇までは出雲族天皇だったと私も思います。
北九州高千穂の大国主と邇邇芸の天逆鉾を天下泰平の為に貸し与える話のある地
宮崎県の神門神社の言い伝えにある
「神主が帝に成り、神門と書いてミカドと読む様になった」と伝えてる人物が
仲哀天皇だと思うが、それは・・
西出雲・杵築大社(現・出雲大社)の古代最後の神主だった
神門臣家の出雲(神門)振禰=倭健が=日本武だったからでしょう。
日本武の名代部は健部(武部)氏で神門臣家の出雲の神門氏を継承したのも健部氏だからです。
それと、神武の兄、次兄の稲飯(稲氷)イナヒは、自国に帰還し新羅建国をした王でしょう。
(父・ウガヤフキアエズ=上伽耶葺合津とも解釈できる。)
稲飯(稲氷)イナヒの裔の天日槍(出雲国盗り合戦の時の大国主と戦った相手)と
天日槍の裔の神功皇后だが母親は神門臣家の姫、息子が応神天皇(八幡神)
一説には、出雲族の后を持つ神武天皇自身もが出雲族と言う説がありますが・・
アレも渡来ゆえ帰化する為の出雲族姫との婚姻での渡来出雲族枠でしょうね。
※ちなみに、桓武天皇の母、高野新笠の母親も神門臣家の姫で巨籍降下した平氏は
母系出雲族・・嵯峨天皇家から巨籍降下した源氏も母系秦氏や清和源氏には母系出雲族と自称している。
宇多源氏が有名。
もう一つ、神門臣家の末孫筋の島津(志摩)国造家の島(直)氏は
蘇我馬子(司馬宿禰)=島大臣に限らず
舎人親王家、藤原氏、平氏、源氏、秦氏などと姻戚していて各氏族に島氏が居る。
出雲族ゆえ・・
マクロス 様
コメントありがとうございます。
古代日本史から近代までの考察に心より敬服いたします。
参考にさせていただきます。
長文で勘違いしてた文面訂正を忘れてコメントにアップしてました。
訂正。
>マクロス より:
>2019年7月14日 10:12 PM
>初めまして
>わたしは、ルーツ探しを通して先住出雲族と
>その子孫と古代日本史から近代まで考察していますが
>先住出雲族は、始祖を国常立(クナト)大神=伊弉諾としていて
>荒破吐神=伊弉冉はどうも縄文人か古代アイヌ人と見ているようです。
>また、素戔嗚(帥升王説)も娘の櫛名田姫と夫婦に成った大国主なので
>妻の父に成り血縁はありません。
↓
初めまして
わたしは、ルーツ探しを通して先住出雲族と
その子孫と古代日本史から近代まで考察していますが
先住出雲族は、始祖を国常立(クナト)大神=伊弉諾としていて
荒破吐神=伊弉冉はどうも縄文人か古代アイヌ人と見ているようです。
また、素戔嗚(帥升王説)の娘と夫婦に成った大国主なので
妻の父に成り血縁はありません。
マクロス 様
コメントありがとうございます。
マクロス様のご研究、参考にさせて頂きます。
話は変わりますが、令和元年に出版された
長浜浩明氏(作家・古代史研究家)の著書「日本の誕生 皇室と日本人のルーツ」WAC(ワック)から出版。
こちらの本も参考にして見てはどうでしょうか。
初めまして。僕はすごく飛騨の口碑、また
このサイトに出逢えて良かったと想っています。色々ある古代史の中で僕は僕なりに、色々と考察して、事実や事実に近い事を単純にまた多角的に考えると。飛騨の口碑というのは信憑性が高いと想っています。
真実を100%知ることは、不可能だと想いますが、飛騨の口碑というのが日本の一部の秘密や伝統が継承されている事は、本当に素晴らしい事だと想います。
いつか、資料館などに行きたいなと想っています。位山もまた行きたいな。最近行ってないんで(笑)
メンタル的にやられてる時に、ふら〜って
位山の巨石群に行ったり、飛騨方面によく行ってたのも、古代の人々に呼ばれてたからかな(笑)と少し感じたりします。
柾子 様
はじめまして、
コメントありがとうございます。
柾子様のおっしゃる通り、私も同意見です。
是非、原著を読み広めて頂ければ幸いです。
飛騨を訪れる人は「なぜか、懐かしく感じる」と話されるそうです。
柾子様が、「位山の巨石群に行ったり、飛騨方面によく行ってたのも、古代の人々に呼ばれてたからかな(笑)と少し感じたりします。」
と感じるのが解ります。
日本を朝鮮語では「イルボン」というがイルはヒルでありイラン、アーリア人をさす。
本は本家あるいは本物であり、天皇をイル王というのは「アーリア人の王」ということである。
また、「日本」を1文字にすると「東」であり「ー」はクニである。これを訓読みすると「ヒムカイ(シ)」であり記紀の天孫降臨から神武東征記の国名に一致する。
「日本人」を訓読みすると鉄器帝国の名称「ヒッタイト」に近い「ヒムカイト」となる。
また、ヒッタイトの別称は「ヒト国」であるがh音は聞き取りにくさから外れることがおおいので「イト国」となり「倭奴国」と一致する。これが省略されて「倭国」となった。アイヌは人種的にモンゴロイドともコーカソロイドともかけ離れたD型y遺伝子をもつ人種である縄文人の直系であり。日本民族とは姻戚であってもまったく別系統の民族である。
縄文人は隣の異民族、イギリス人は異郷の同胞 様
コメントありがとうございます。
アーリア学説のご研究をお勧めくださいませ。
私からは、以上です。
天孫族とはアングロ(天下り>アマ来る)族でありアーリア人である。
田舎から古代日本のような軍事国家が誕生できるわけはないのである。
アングロ英語をローマ字読みすると日本語に近くなるのはもともと同じ民族が鉄製兵器の開発によりコーカサス(たかまがはら)、アナトリア(もとイズモ)あたりから東西に軍事侵攻したためである。人種は記紀にあるように采女制度による先住民族との婚姻、庶子等の天下りによって変わってゆく。日本人のうち白人的容貌のものが1、2割程度になっているのはそのためである。
大陸の日本民族および領土は新興の中国等の国家により滅ぼされたのである。
アジア語と日本語のクレオールであるウラルアルタイ語、マレーポリネシア語はその名残である。
鉄人=日本人は 様
コメントありがとうございます。
アーリア学説のご研究をお勧めくださいませ。
私からは、以上です。
歴史について いろいろと考えさせられる きっかけを ありがとうございました。
アイヌ族については 僕たち素人では なにひとつ わかっていないですから、
もっとたくさんのことを 知りたいと思いました。
わんわん様
コメントありがとうございます。
神武以前の出来事が、口碑として伝わっていたと言う事に私もびっくりです。
是非一度、天孫宮へ直接ご参拝してみてはどうでしょうか?
大勢の人が、飛騨に来るとなぜか「なつかしい」との思いになるそうです。
日本人の遺伝子に飛騨(日抱の御魂鎮め)がしみ込んでいるからだと思います。
わんわん様のご研究が進みましたら私にも教えてください。
よろしくお願いいたします。
シラギ神崇拝教っていったい何のことでしょうか?
全体的に論旨がよくわからないです。
プレーヤーとして、元々の縄文系日本人(蝦夷としておく)、渡来人、粛慎(ツングース系)倭人がいた中で、誰がどこだと同定し切れるかわかりませんが、考古学上分かっている事を含めても事実錯誤が多いように思います。
各返信も誠意がないので論点が詰まっていないのが残念です。
飛騨には行ってみたくなりました。
何か真実の断片があるなら拾う必要がありますから。
たなか様
コメントありがとうございます。
>シラギ神崇拝教っていったい何のことでしょうか?
>全体的に論旨がよくわからないです。
・このブログは、『飛騨の口碑』を紹介したものであり、著者と当ブログとは関係がありませんし、議論したいものではありません。
・カテゴリーの『託された口碑』から読んで頂きたいと存じます。
・カテゴリーでは、新しい記事が上になりますので、順番としては下からになります。
・ホームのページでは、上が最初に作ったページになります。
・原著を読んでいただく事をお勧めいたします。
ブログ全体の要約
日本人(大和民族)は、現在の乗鞍岳(古代、淡山といった)のそばにある丹生の池から生命が誕生し人間までに進化し、気候の変化等によって下山し、全国に広がった。
そして、いつ誰が始めたか解らないが、池を囲んで心を鎮める「日抱の御魂鎮め」と言う精神文化があり、日本中に広がった人達は各地で「日抱の御魂鎮め」を行う。
「日抱の御魂鎮め」は、先祖に感謝し、淡山に感謝し、行われたので、後々「日抱の御魂鎮め」を行った所に社(やしろ)を作り土地を開いて下さった先祖を祀った。
今から、2500年位前に「日抱の御魂鎮め」をしていた大淡上方様というお方が、近い将来海を渡ってくる異民族が日本に上陸し、もともと住んでいた日本人(飛騨から広がった人達)を殺してどんどん攻めてくる様子を透視された。
そこで、大淡上方様は、今までただ仲良く暮らしているだけでは皆を守れない。
どうしたらよいかと考えた末、国作りをはじめた。
中心となるものは、苗字が無く本家とし、各地を守るために分家した者には苗字を与える。
本家と分家と言うシステムを作り、代々国作りを行う。
分家した者は、本家の言う事を守り、国作りを代々行った。
本来日本中の社には、その土地を開いて下さった先祖を祀っていたのに、何者かがご祭神をすり替えた事に、故山本健造氏は気付く。
『飛騨の口碑』が本当に正しいのか、『古事記』『日本書紀』が正しいのかを全国を調査し、調べて気が付いたことがあった。
それは、大和民族(天孫)を逆恨みしていた者がいて、シラギ神崇拝教と言う宗教をつくり、9代掛けて大和の御諸山を乗っ取り、三輪山に改名。
さらに、分家して国を守るために開いた各地、その各地に祀られていた本当の御祭神をシラギ神にすり替えた。
その後、シラギ神崇拝教がすたれてくると「出雲教」と名前を変えた。
と、言う内容です。
著者から
古代史はお伽話化されています。
二千年前の事がお伽話であろうはずがなく古代史を誤魔化して隠した者がいたのです。
ところが表向き歴史をかくし、そして神事の中に真実の歴史を残したのです。
それに気づき解読して本書に書きました。
私流に解読したものです。
本文中に断定しているような箇所がありましても総て推定です。
本書は過去の歴史であり現在のどの社も、宗教も、どのお方とも関係がありませんのでお断りをしておきます。
(山本健造原著/山本貴美子著 2010『暴かれた古代史』福来出版 まえがき~引用)
高天原に追われた天孫族を「サンカ」といい、北海道へ追いやられた天孫族をアイヌ。
と呼ぶのです。
高天原へ追われた天孫族=サンカは、街中へ降りて「天孫降臨」
街中へ降りたから「エッタ」と呼ばれ、エタヒニンとして同和部落に隔離された。
私のようにちゃんとした流れを書いてくださいね!!
コメントありがとうございます。
参考にさせていただきます。
当ブログは、下記と同意見であります。
『古代史はお伽話化されています。
二千年前の事がお伽話であろうはずがなく古代史を誤魔化して隠した者がいたのです。
ところが表向き歴史をかくし、そして神事の中に真実の歴史を残したのです。
それに気づき解読して本書に書きました。
私流に解読したものです。
本文中に断定しているような箇所がありましても総て推定です。
本書は過去の歴史であり現在のどの社も、宗教も、どのお方とも関係がありませんのでお断りをしておきます。』
(山本健造原著/山本貴美子著 2010『暴かれた古代史』福来出版 まえがき~引用)
私から怒りの回答を述べます。
本当に此処のサイトを見ると反吐が出るばかりか、苛々する。
蘇我氏こそ「初代天照大神=天孫族」である。
出雲の地に侵略した古代イスラエル12支族が、天孫族=アイヌと対立して、後に天孫族は高天原に追われる者、北へ北へと追いやられる者。居たわけですよ。
元々、天孫族=アイヌは出雲の地に住んでおりましたがね!!
新羅&唐からの侵略渡来系が出雲の地に入り、略奪、虐殺、天皇の権威を奪ったわけですよ。新羅&唐が元々出雲族というわけではないのですよ(笑)
そこらへんは誤解のないようにね!
コメントありがとうございます。
参考にさせていただきます。
当ブログは、下記と同意見であります。
『古代史はお伽話化されています。
二千年前の事がお伽話であろうはずがなく古代史を誤魔化して隠した者がいたのです。
ところが表向き歴史をかくし、そして神事の中に真実の歴史を残したのです。
それに気づき解読して本書に書きました。
私流に解読したものです。
本文中に断定しているような箇所がありましても総て推定です。
本書は過去の歴史であり現在のどの社も、宗教も、どのお方とも関係がありませんのでお断りをしておきます。』
(山本健造原著/山本貴美子著 2010『暴かれた古代史』福来出版 まえがき~引用)
まして(笑)
蘇我氏をシラギの人と断定するその根拠が痛々しい(笑)
蘇我氏は「蝦夷」です(笑)
ここのサイトを開設した「学者」は無能か?
よくもまぁ、先生と呼べますね。
コメントありがとうございます。
参考にさせていただきます。
当ブログは、下記と同意見であります。
『古代史はお伽話化されています。
二千年前の事がお伽話であろうはずがなく古代史を誤魔化して隠した者がいたのです。
ところが表向き歴史をかくし、そして神事の中に真実の歴史を残したのです。
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私流に解読したものです。
本文中に断定しているような箇所がありましても総て推定です。
本書は過去の歴史であり現在のどの社も、宗教も、どのお方とも関係がありませんのでお断りをしておきます。』
(山本健造原著/山本貴美子著 2010『暴かれた古代史』福来出版 まえがき~引用)
藤原鎌足&秦氏は「出雲族」であり、天孫族は「アイヌ」である(事実です)
こういうのさえ知らない、気付かない、まして 日本のエスタブリッシュメントさえも知らないあなた方。
私らは苦笑いしておりますよ。
コメントありがとうございます。
参考にさせていただきます。
当ブログは、下記と同意見であります。
『古代史はお伽話化されています。
二千年前の事がお伽話であろうはずがなく古代史を誤魔化して隠した者がいたのです。
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それに気づき解読して本書に書きました。
私流に解読したものです。
本文中に断定しているような箇所がありましても総て推定です。
本書は過去の歴史であり現在のどの社も、宗教も、どのお方とも関係がありませんのでお断りをしておきます。』
(山本健造原著/山本貴美子著 2010『暴かれた古代史』福来出版 まえがき~引用)
真実を書きましょうか?
藤原鎌足&秦氏が 日本書紀を改竄歪曲し、本物の皇族を殺害してきて 偽天皇を即位させてきて国民を騙して支配してきた。
此処のサイトは 私らからすれば「糞」同然。見るに値しないばかりか、信用にもならない。
コメントありがとうございます。
参考にさせていただきます。
当ブログは、下記と同意見であります。
『古代史はお伽話化されています。
二千年前の事がお伽話であろうはずがなく古代史を誤魔化して隠した者がいたのです。
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私流に解読したものです。
本文中に断定しているような箇所がありましても総て推定です。
本書は過去の歴史であり現在のどの社も、宗教も、どのお方とも関係がありませんのでお断りをしておきます。』
(山本健造原著/山本貴美子著 2010『暴かれた古代史』福来出版 まえがき~引用)
中大兄皇子と藤原鎌足が行ったことを知らないのでしょ?
この二人は、蘇我入鹿を斬首して、その首を塩漬けにし、蘇我氏の娘の前で塩漬けにした父親の生首を見せて発狂させてそれを見て楽しんでいた 中大兄皇子と藤原鎌足。
此処のサイトは 「スメラノミクニ」の洗脳工作サイト。私ら天孫系の直系からすれば、心が凄く痛みましたよ。
スメラノミコトはとんでもない悪だという事。
コメントありがとうございます。
参考にさせていただきます。
当ブログは、下記と同意見であります。
『古代史はお伽話化されています。
二千年前の事がお伽話であろうはずがなく古代史を誤魔化して隠した者がいたのです。
ところが表向き歴史をかくし、そして神事の中に真実の歴史を残したのです。
それに気づき解読して本書に書きました。
私流に解読したものです。
本文中に断定しているような箇所がありましても総て推定です。
本書は過去の歴史であり現在のどの社も、宗教も、どのお方とも関係がありませんのでお断りをしておきます。』
(山本健造原著/山本貴美子著 2010『暴かれた古代史』福来出版 まえがき~引用)
此処のサイトを閲覧させていただきました。
私は「アイヌ」の一族の者です。
早速ですが、飛騨について私の方から書かせていただきます。
スメラノミコト=飛騨族=サンカ
と私らの方から書かせてもらいます。
被差別部落に落とされた云々カンヌン。
私、アイヌからすれば生ぬるいわけですよ。
アイヌは渡来人から迫害を受け、虐殺され、アイヌ女性は強姦され性病になり死亡しております。
天皇をゴリ押しするのはいいですけど、アイヌの事はガン無視ですか?
「天孫系」の初代こそ、アイヌ民族だという事を知らないのでしょ?
コメントありがとうございます。
参考にさせていただきます。
当ブログは、下記と同意見であります。
『古代史はお伽話化されています。
二千年前の事がお伽話であろうはずがなく古代史を誤魔化して隠した者がいたのです。
ところが表向き歴史をかくし、そして神事の中に真実の歴史を残したのです。
それに気づき解読して本書に書きました。
私流に解読したものです。
本文中に断定しているような箇所がありましても総て推定です。
本書は過去の歴史であり現在のどの社も、宗教も、どのお方とも関係がありませんのでお断りをしておきます。』
(山本健造原著/山本貴美子著 2010『暴かれた古代史』福来出版 まえがき~引用)
伊勢神宮内宮の荒祭宮のご祭神(瀬織津ヒメ、向津ヒメ、大禍津日神(=禍津神を抑える神))は、飛騨の伝承では、例えば、飛騨族・出雲族・日向族などの系統上どなたと言われているのでしょうか。もしもご存知でしたらご教示ください。(例えば、飛騨族のアメチカルミズヒメではないですよね。)
匿名希望 様
はじめまして、コメントありがとうございます。
山本健造氏に託された、「飛騨の口碑」に興味を持って頂きましてうれしいかぎりです。
さて、
お問合せの荒祭宮のご祭神ですが、ご期待に添えず大変申し訳ございませんが私では分かりかねます。
私は、山本健造先生、山本貴美子先生の御著書を読ませて頂いた者であり、古代史を研鑽するに至っておりません。
匿名希望様の研鑽によって、分かりましたらお知らせ頂きたいと思います。
故山本健造先生は、「その土地を開いてくださった尊い方々がすり替えられてしまって残念だ。今じゃ、誰を祀っていたのかが分からなくなってしまった。」と云うような事を話していたと聞きます。
知っている人がいるとすれば、部落(本来は、尊敬されるべき方々)に落とされた方々にいるかもしれません。
理由は、飛騨から降りて土地を開拓した人たちが、代々現在の伊勢神宮近辺に大勢住んでいたのですから。
シラギ教(後の出雲教)になびかなかった飛騨の人達を、飛騨(ひだ=えった)と呼んで部落に落としたのです。
飛騨から降りて来た人たちは、日本の国造りを始め、海を渡って来る侵略者から国を守った尊い方々ばかりです。
その尊い方々がほとんど祀られず、すり替えられてしまいました。
しかし、先祖代々、部落(天孫)の人達の中で言い伝えられていれば知っている人がいてもおかしくはないと思います。
ちなみに伊勢神宮の外宮とは、シラギ教が飛騨の人達を見張っていた見張り所だといいます。
ブログにも書いてあることですが、びっくりしました。
長々と書かせていただきました。
こちらも情報が入り次第、お伝えしたいと思います。
ありがとうございました。
部落の起源はかなり古いと思います。おそらく平安時代の前ではないでしょうか。
おそらく、古代王家のスサノヲ、饒速日、神武天皇家、その後の崇神、応神系まとめて、新王家にとって代わられたので、近畿圏、九州圏含めて以前の王家関係者の住む地域が部落化されたというのが蓋然性が高いと思います。
古代起源説の比較的長頭が多いとされるのも、百済系より弥生系が多いということかと思います。
匿名 様へ
はじめまして、コメントありがとうございます。
多くの方々が「飛騨の口碑」に興味をもってサイトを訪問されることを願っております。
匿名様は、かなり古代史を研究されている方とお見受けいたしました。
匿名様の研究に私のサイトが、お役に立てれば幸いです。
また、深く研究するなら原著を読んでほしいと思います。
または、月に一度セミナーを開いているようなのでそちらに参加してみてください。
セミナーに関しては、飛騨福来心理学研究所のサイトで確認してください。
コメントの回答にならず申訳ありませんが、研究のご発展をお祈りいたします。