日本人のルーツと日本起源を知るうえで、「伊勢神宮」はなぜ伊勢にあるのかを知りたいと思いす。
倭姫命(ヤマトヒメノミコト)がなぜ伊勢に、天照大神をお祀りされたのか?
史実は、古代被差別部落を作ってきたシラギ神崇拝教(後に、出雲教となる)が八咫鏡を狙い皇位を奪おうとしたため皇子(ひめみこ)が逃げて逃げて、それでも追いかけてくるシラギ神崇拝教。
やっとの思いで辿りついたのが伊勢であり、伊勢には大勢の天孫一族が暮らしており八咫鏡(やたのかがみ)を守ったのです。
シラギ神崇拝教は伊勢に見張所を作り八咫鏡を諦めませんでした。
それでも奪えなかった八咫鏡、仕返しに伊勢国の天孫が住む村を被差別部落へ落としたのです。
今回は、「古代被差別部落とは、その3」の続きと豊耜入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)が「八咫鏡」を守って笠縫村から姿を消し、次にヤマト姫が「八咫鏡」を守って伊勢にたどり着いた歴史を山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』から紹介いたします。
当ブログは、下記と同意見であります
古代史はお伽話化されています。
二千年前の事がお伽話であろうはずがなく古代史を誤魔化して隠した者がいたのです。
ところが表向き歴史をかくし、そして神事の中に真実の歴史を残したのです。
それに気づき解読して本書に書きました。
私流に解読したものです。
本文中に断定しているような箇所がありましても総て推定です。
本書は過去の歴史であり現在のどの社も、宗教も、どのお方とも関係がありませんのでお断りをしておきます。
(山本健造原著/山本貴美子著 2010『暴かれた古代史』福来出版 まえがき~引用)
シラギ神崇拝教(出雲)は勝利に湧き、長く栄華をきわめる
『かごめ かごめ
籠の中の鳥は
いついつ でやる
よあけのばんに 鶴と亀とすべった(相撲とった)……』
この童歌は、一人の子供が顔を覆ってしゃがんでいる周りを取り囲んで大勢の子供が手をつないで歌いながら歩いてまわる、子供の遊びです。
囲んでまわっているのはシラギ神崇拝教の出雲勢です。
座っている子供は天孫を意味し、目をふさいで泣いているのです。
これは天孫たちが大勢のシラギ神崇拝教に囲まれてしまってもう逃げ出すことができずに泣いているようすです。
飛騨から降りた天孫の鶴が出雲の亀に負けて籠(かご)に閉じ込められてしまったようすを表しているのです。
大人社会の空気を童(わらべ)たちが敏感に感じ取って遊びの中に取り入れて遊んだ遊びなのです。
大人たちは飛騨をタイマノケハヤに、出雲をノミノスクネの相撲に表しました。
子供たちはそれを遊びに取り入れたのです。
深い意味も知らずに受け継がれて今日に至っているのです。
童歌にうたわれている鶴と亀がすべった、これは「相撲をとった」が「すべった」になまったと思われますが、鶴と亀とすべって亀が勝った、とまで唄う必要はないのです。
鶴は千年、亀は万年であり、うたうまでもなく亀が勝ったのです。
亀は言うまでもなく出雲です。出雲大社の紋です。
昔から鶴亀を並べることがお祝いの象徴になっています。
「並べること自体」がです。
よく考えると並べることで亀の万年が鶴の千年に勝っていることを暗に表しているのです。
並べて亀が鶴に勝っていることを主張しているのです。
出雲にとって亀が鶴に勝ったことが祝うべきことであり、祝うべきこととは亀が鶴に勝ったことなのです。
出雲は鶴亀をならべて祝いの象徴にして出雲の勝利を宣言し宣伝したのです。
出雲にとって、天孫の古神道に勝ったこと以上にめでたいことはなく、めでたい事とはとりもなおさず大和朝廷(飛騨)の古神道に出雲のシラギ神崇拝教が勝ったことなのです。
出雲の宗教が古神道に勝ったことそれを亀と鶴で表したのです。
それが出雲にとって最もめでたいことなのです。
ついに、ついに出雲が飛騨に勝ったのです。
積年の願いが叶ったのです。
その最も祝うべきお祝いの象徴が鶴亀なのです。
まず、大和一の宮を乗っ取り、その後次々と勝ちに勝ち、天皇が出雲の曾(ソ)の社を造営し、ついに天孫の重要な土地を奪い取ったのです。
出雲ではこの勝利を沸きに沸いて喜んだのです。
そのはずなのです。
出雲にとってホヒを殺して出雲の統治権を奪った、その時いらいの大願がここに成就したのです。
もっとも嬉しいことであったのです。
深い意味が忘れられ知らずに鶴亀がお祝いの象徴になるほど日本の文化に浸透しているのです。
日本中が、シラギ神崇拝教思想に支配された時間がいかに長かったかを物語っています。
天孫を祀っていた社(やしろ)をシラギ神に、次々とすり替えて行く
こうして大和で勝ちに勝ったシラギ神崇拝教は、古神道の社の神を追い出してシラギ神を祀らせる宗教革命に拍車をかけました。
イソタケルを代表神とするシラギ神には他にどのような神がいたのか
『古事記』に次のようにあります。
大歳神(オオトシノカミ)の子に大国御魂神(オオクニミタマノカミ)
韓神(カラノカミ=韓とは朝鮮のこと)
曽富理神(ソホリノカミ=曽富理とは朝鮮の都)
向日神(ムカイノカミ=出雲の向かいとは朝鮮半島のこと)
聖神(ヒジリノカミ)
大香山戸臣神(オオカガヤマトオミノカミ)
御年神(ミトシノカミ)
奧津日子神(オキツヒコノカミ)
奧津姫(オキツヒメ)
別名大戸姫神《べつめいオオベヒメノカミ(竈神(マカドノカミ)》
大山咋(オオヤマクイ)の神、別名を山末之大主神(ヤマスエノオオヌシノカミ)でこの神は近江(おうみ)の日枝(ひえ)の神 また松尾(まつお)の神である。
庭津日神(ニワツヒノカミ)
阿須波神(アスハノカミ)
波比岐神(ハヒギノカミ)
香山戸臣神(カグヤマトオミノカミ)
羽山戸神(ハヤマドノカミ)
庭高津日神(ニワタカツヒノカミ)
大土神(オオツチノカミ)
別名土之御祖神(べつめいツチノミオヤカミ)がある、とあります。
『古事記』に大歳神(オオトシノカミ)はスサノオの子と書かれていますが、筆者はスサノオは朝鮮には行っていないと推定しています。
これらの神々はみなオオクニヌシが朝鮮の新羅(シラギ)へ行った時に新羅の女に生ませた子供や孫でシラギ神崇拝教の神々です。
大歳神と少彦名(イソタケル)とは母親が違うようです。
韓神(カラノカミ)とは韓国(カラノクニ)を指し、曽富理(ソホリ)はソウル(朝鮮の都のこと)であり、向日神(ヒムカイノカミ)とは出雲の向かいは韓国・朝鮮です。
全国のほとんど多くの古神道の社(やしろ)に元からの神を追い出しシラギ神が入り込みました。
そして後にシラギ神が失墜したときに次は出雲の神にスリ替えられたのです。
(古代史が二重にねじれた原因)
シラギ神とはわからない神名はそのまま残され、今ではシラギ神とは知らずに祀られ続けています。
さて、日枝神社(ひえいじんじゃ)の祭神は大山咋(オオヤマクイ)です。
出雲で起きた新興宗教シラギ神崇拝教の神です。
昔、古神道の神が祀られていた社が、シラギ神にすり替えられてそのまま今日なお祀られ続けているのです。
それは大山咋の神名がシラギ神とは全然わからないために、シラギ神が失墜したときにかろうじて失脚を免れたと思われます。
山王様(さんのうさま)と親しんできた日枝の社の神は、古神道の神ではなく、古神道と思いこんでいた神は、あろうことか日本の神でもなく昔出雲で起きた新興宗教のシラギ神であったのです!
日枝神社、全国に約二千四百社(『大神神社資料・第九巻・分祀要覧』)もある社にシラギ神が祀られているのです。
驚きの他ありません。
シラギ教に狙われた「八咫鏡」、大和に安全な場所なし。笠縫村をでたトヨスキイリ姫
御諸山を乗っ取り、大和で古神道に完全に勝利したシラギ神崇拝教の目指すは「八咫鏡」ただ一つでした。
「八咫鏡」さえ手に入れば… とにかく「八咫鏡」さえ手に入れば…
出雲でホヒを倒して以来の念願である天皇の位に就くことができる…
「八咫鏡」さえ手に入れば…
その鏡はたかがか弱い皇女(ひめみこ)が、女が持って逃げているのです。
回りはみなシラギ神崇拝教の信者なのです。
天皇の位が…
目にちらつく程に近づいているのです…。
どのような手段をつかってでも手に入れるぞ、と出雲のシラギ神崇拝教は血眼になって飢えた狼の、それよりするどく「八咫鏡」ただ一つに狙いを定めたのです。
「八咫鏡」の安全な場所 大和になし
話しを少し戻しますが、十代崇神天皇から、直ちに「八咫鏡」を抱いて隠れるように命じられたトヨスキイリ姫は慌てて笠縫村(かさぬいむら)を出ました。
そして大和の親戚を頼って転々とされました。
所が悲しいことに大和にはもはや「八咫鏡」の安全な場所はなかったのです。
トヨスキイリ姫は「八咫鏡」を背負って大和を逃れ、丹波(たんば)の親戚の但波乃吉佐宮(たにわのよさのみや)に隠れました。
大和から「八咫鏡」が消えた事を知ったシラギ神崇拝教は、慌てて必死に捜しました。
そして、四年ほど経った頃ついに見つけられ、姫はまたこっそり丹波(たんば)を去りました。
そして再び大和へ帰りさらに木の国(きのくに=和歌山市)吉備国(きびのくに=海南市)と逃げて、再び大和へ帰りました。(『倭姫命世記』)
トヨスキイリ姫を匿(かくま)ってくれる社でも出雲に漏れたら社も家族もトヨスキイリ姫もろともに危険なのです。
ひっそりと暮らしていてもすぐにシラギ神崇拝教に見つけられるのです。
もうまわりはすっかりシラギ神崇拝教なのです。
トヨスキイリ姫は失意のうちに大和に逃げ帰ったのです。
小夫(おおぶ)に帰る
トヨスキイリ姫が帰ったのは大和の桜井市小夫でした。
小夫は大事な親戚なのです。
もう若くないトヨスキイリ姫は、極度の恐怖にさらされながらの逃避行に身も心もボロボロに疲れ果て体力の限界を感じていたのです。
すでに父・崇神天皇は亡くなられて、垂仁天皇の御代にかわっていました。
帰っていることをこっそりと天皇にお知らせしたのです。
ヤマト姫に「八咫鏡」を託す、以後ヤマト姫の30余年の大逃避行生活が始まった
天皇は賢くて意志の堅固な皇女ヤマト姫に後を託されたのです。
天皇の命を受けてヤマト姫は夜こっそりと小夫(おおぶ)のトヨスキイリ姫の隠れる家に急ぎました。
トヨスキイリ姫は叔母様(おばさま)にあたるお方です。
叔母様のやつれて疲れ果てられてはいますが、御無事なお姿にお会いして、ともに手を取って泣きました。
ヤマト姫は泣きながら、天皇からのねぎらいのお言葉をお伝えしました。
トヨスキイリ姫は、聡明で丈夫そうな姪(めい)のヤマト姫を見て喜び、筆舌に尽くせぬ苦労と、逃げても逃げても執拗に探し出す出雲のしつこさ、あわやというところで命からがらお鏡を守り抜いた苦労や悲しみのつきせぬ体験を話されたのです。
ヤマト姫は、小夫(おおぶ)にほんの数日間、目立たぬように過ごしました。
なにせ三輪山のすぐ近くなのです。
「八咫鏡」はトヨスキイリ姫から、きれいな水で身も心も清めたヤマト姫の胸にしっかりとお渡しされて交代されたのです。
そして、再出発の印にこの小夫の地に四つ石をならべて敷き、必ずや天照大神御鎮座の地を探してその地に同じように四つ石をならべると、ヤマト姫は堅く誓いました。
二人はともに皇女(ひめみこ)であることを誇り手を固く握りあって、もう再びこの世で会うことのない別れを惜しんだのです。
そして「必ずやり遂げますからご安心下さい」とヤマト姫は叔母様にお誓いして夜陰にまぎれて出発なされたのです。
見送ったのはトヨスキイリ姫ただ一人、或る夜のことでした。
ヤマト姫に交代したことを絶対に秘密にしなければならず、ヤマト姫が「八咫鏡」を抱いて小夫から出発したことを誰にも悟られてはならなかったのです。
そのヤマト姫の出発地が現在の小夫の天神社です。
当神社は古くは天神(アマツカミ)神社であったと由緒にあります。
ここは三輪山に近く、ことあるごとに、何かにつけていじめられ、村中が命からがらしかたなく、ずうっと後に、菅原道真(スガワラミチザネ)を祭神に入れて出雲の傘下に下って出雲からの攻撃の難を逃れたと思われます。
三輪山に近いある天孫の村では三輪山に睨まれると刀、槍、棒を持って攻められて村が潰されて殺される程なので、村中相談のうえ、やむなく菅原道真を祀ることで三輪山の傘下に降った村もあるのです。
その村の古老は、現在は菅原道真と荒神(こうじん)といって竈(かまど)の神を祀っているが、その前は偉い天孫の神が祀られていたと村に言い伝えていると語りました。
荒神様(こうじんさま)とは、シラギ神なのです。
ヤマト姫、想像を絶する苦難で「八咫鏡」を守り伊勢へ
ヤマト姫に従った者は侍女二人、男二人位だったでしょうか。
世間にはシラギ神崇拝教の信者が満ちており、誰が信者かわからず、親戚のなかにさえ信者がいる中での逃避行は、最低の人数で目立たないようにせねばなりません。
信頼できる人以外には、ヤマト姫であるということが絶対にバレてはならないのです。
ヤマト姫は普通の女に身をやつして、五人も連れ立って歩くと目立つので、次の落ち合う目的地を定めて、別行動をとって、かといって姫と侍女だけでは心配なので、一人の男はヤマト姫を見守りながらすこし離れて、とにかく目指すはかつて天照大神の命令で飛騨から降りてきた人達の住んでいるところであり、天孫を頼って、昼は眠り、といっても泊まる家もなく、薄暗い時に歩く、想像を絶する、苦難の道であられたのです。
「八咫鏡」を背負ってのヤマト姫の道のりは、奈良県大宇陀町から三重県名張市、上野市、伊賀町、滋賀県近江町、岐阜県巣南町、愛知県、そして三重県に入られました。
(『倭姫命世記』)
伊勢国といえば一の宮椿大神社です。
そうです。
鈴鹿の山本です。
その昔飛騨のスメラ命の先祖の分かれが鈴鹿に降りてきて地盤を築き、大和の開拓を助け天孫降臨を助け一大勢力を誇っているのです。
三重県多度町・桑名野代宮にヤマト姫が着かれると、さっそく椿大神社・サルタヒコ大神の子孫のオオタ(大田タネコとは全く別の血筋)が馳せ参じ鮎を天照大神にお供えされたという記録があります。
その後、鈴鹿の山本へこっそり立寄られました。
この後オオタが道案内され、静岡県三ヶ日町まで行かれますが四十日滞在されて再び三重県に戻られます。
そして亀山市、津市、松阪市、多気郡明和町、伊勢市、大宮町、伊勢市と転々と逃げました。(『倭姫命世記』と地元口碑)
トヨスキイリ姫、ヤマト姫を助けた人々もしらぬまに被差別部落に
トヨスキイリ姫、ヤマト姫は親戚や飛騨からきた天照大神の尊さを知る人々を頼りに行きました。
しかし行く処いく所、シラギ神崇拝教にすぐに嗅ぎつかれてまた逃げたのです。
死に物狂いで逃げる姫を助けたのは天孫でした。
そして、どうもあの村では姫を助けたらしいと疑われると、ひだ村、ヒッタ村と罵られて、被差別部落に落とされてしまったのです。
姫が頼って隠れたと思われる処には差別された方々が大勢いるのです。
「八咫鏡」は伊勢のどこに…
逃げる姫と追うシラギ神崇拝教、ヤマト姫は逃げ回って伊勢まで来ました。
もうこれ以上逃げるところがないのです。
伊勢に逃げ込んだヤマト姫一行はついに姿を消したのです。
出雲・シラギ神崇拝教から逃げきりました。
トヨスキイリ姫から「八咫鏡」を受け継いで三十余年極度の恐怖にさらされながらの大逃避行でした。
伊勢には椿大神社の一族や、三〇〇年近い程の昔から先祖が飛騨から降りた人々が大勢住み着いていて天照大神の偉大な徳を知っており、その昔出雲の国おかえしの一連の事件の真相、オオクニヌシの淫乱(いんらん)あだ名の葦原醜男(アシハラシコオ)をよく知っているのです。
「八咫鏡」とヤマト姫を命がけで守ってくれる人々が大勢住んでいたのです。
トヨスキイリ姫が大和を逃げ出して以来五十余年「八咫鏡」の安住の地は伊勢であったのです。
さて出雲は伊勢まで追いつめたものの伊勢の何処にあるのかわからなくなってしまったのです。
「八咫鏡」は命がけで守ってくれる人々の家を転々とされながら隠してお守りし続けたのです。
十一代垂仁天皇の御世のでき事でした。
それから長い間シラギ神崇拝教がどんなに手を尽くしてもその在り処がわからなかったのです。
安住の地の伊勢に、「見張所=外宮」を作り諦めないシラギ神崇拝教
ヤマト姫が姿をくらまし「八咫鏡」がわからなくなりましたが、シラギ神崇拝教も「伊勢のどこかにあるはずだ、伊勢から外には出ていない」とにらんで長期戦を覚悟して見張り所を構えました。
そして天孫たちの動向を監視し「八咫鏡」を探しにさがしたのです。
シラギ神崇拝教の執念深さには呆れます。
その見張り所が豊受大神(トヨウケノオオカミ)ことイソタケル、後にオオクニヌシを祀って後には外宮(げくう)になっているのですから驚きです。
驚き 今尚 外宮先祭(げくうせんさい)とは
外宮先祭といって、外宮が内宮より優先されて行なわれます。
このことだけを見ても内宮が外宮に押さえられていた証拠です。
今尚行われているのです。
皇太子様が参拝された時も、先に外宮を参拝され、その後に内宮にお参りされたのです。
ご先祖の天照大神を参拝される前に、先に外宮に挨拶に行かれるとは、昔、出雲に抑えられていた頃の習慣がいまだに続いているのですから驚きます。
天照大神も残念に思われていると拝察します。
真相を知る者にとって残念極まりありません。
伊勢の天孫族は、シラギ神教になびいたように見せて身を護った
伊勢市の古い町並では民家が出雲の社と同じ切妻建築様式(きりづまけんらくようしき)で玄関が妻入(つまいり)りになっています。
伊勢の住民は家を出雲大社と同じ妻入りにして「私はシラギ神です」ですからこの家には「八咫鏡」はありません、とわざととぼけて表明したのだと思います。
一方シラギ神崇拝教のほうではシラギ神を歓迎してくれる家に蘇民将来(そみんしょうらい)のお札や茅(ち)の輪を玄関に飾らせたのです。
蘇民(そみん)とはまさに「ソの民」のことです。
私の家は、ソ・新羅の民を、将来(しょうらい)とは招来(しょうらい)のことで、喜んで招く、ソ民のお方を喜んで招き泊まっていただきますよ、ということを表明する印でなかったかと思います。
そして蘇民将来の札を掲げない家や茅(ち)の輪をつけていない人はシラギ神崇拝教に皆殺しにあうような迫害を受けたのです。
注連縄(しめなわ)は正月に飾るのですが、伊勢志摩では蘇民将来子孫家門という文字を書いた札を注連縄に付けて玄関に一年中飾っています。
今ではその意味がすっかり忘れられてしまってお札を掲げる習慣だけが残っているのです。
シラギ神崇拝教はしらみつぶしに探したのです。
こうしてシラギ神崇拝教と天孫とで長いあいだ騙し合いが続いたのです。
「八咫鏡」ついにシラギ教にみつかる。皇女タクハタ姫は、死と引き換えに守りぬいた
そして、ついに二一代雄略天皇の御代に、出雲・シラギ神崇拝教の恐ろしい執念が「八咫鏡」の在りかを突き止めたのです。
垂仁天皇から十代目のできごとです。
時に「八咫鏡」をお守りする皇女はタクハタ姫でした。
姫は「八咫鏡」を抱いて逃げました。
姫の後を数人の侍女が追いました。
その後を出雲・シラギ神崇拝教が追いました。
五十鈴川(いすずがわ)の上流まで逃げた時にもうここまで、これ以上逃げ切れないと悟った姫は誰も来ないうちに「八咫鏡」を地中に埋めて、さらに力の限り方向を変えて走りました。
そこまできて姫は侍女が追いついてくるのを待ちました。
一人の侍女がすぐに追いつきました。
そして姫は侍女に静かに最後の話しをしたのです。
「先代の斎宮様(さいぐうさま)から御預かりしながら、こうなったのは不徳の致すところ、私に代わって守りぬき、必ず次の斎宮様にお渡しして下さい。
私はここで自害しますから、あなたは早くここを去って逃れ、その後、「八咫鏡」を掘り出しなさい」と埋めた場所を教えて、早く姫から離れるようにいいました。
侍女は姫を残して去りがたく、せめて御最期をお見届けしなくてはと、ぐずぐずしているのを姫に早く去れとせかされて、一刻をあらそう侍女は泣く泣く一目散に方向を転じて逃げました。
姫は侍女が無事逃げるのを見届けて、最後にもう一度、天照大神と父・天皇にお詫びをし、もう一度「八咫鏡」の無事を神にお祈りして、父から伊勢へ出発する時に賜った剣を出して、胸を一突きにしてきれいな最期をとげられたのです。
なんと潔いのでしょうか! さすが皇女です。
侍女から、姫の死を聞いた天孫達は、慌てて姫をさがしに駆けつけました。
美しき姫は、深い森の林の中で、一人安らかに清く、横たわっていました。
姫の崇高な死の姿に、天孫達はみんな泣いて泣いて、泣いて泣いて、この潔い、尊い皇女に「八咫鏡」を守りぬくことを心からかたく誓い、姫を篤く葬ったのです。
ところが『日本書紀』にはあろう事かタクハタ姫は子供を孕んだかのごとくに書き、首を吊って死んだと最大の侮辱を浴びせて書いています。
出雲のシラギ神崇拝教のこの下品さには、開いた口がふさがりません。
(山本健造原著/山本貴美子著『暴かれた古代史 二千年の涙』福来出版 引用)
建国の功労者「天孫」の子孫は最後の最後まで「八咫鏡」を守りぬいてエッタに
飛騨から降りた人々もあまりにシラギ神崇拝教がしつこくいじめ命が危ないので出雲に従ったふりをして、妻入りにして「シラギ神」であることを表明したり、蘇民将来のお札を掲げて難を逃れた人もいたと思います。
出雲、シラギ神崇拝教のあまりにも激しい攻撃に耐えかねて、表面だけシラギ神崇拝教のふりしていじめから逃れたのもほんとうにしかたのないことでした。
最後まで頑張りぬき、守りぬいた筋金入りの天孫は椿大神社一族とウズメを先祖にもつ方々が多かったであったろうと筆者はみています。
ウズメは飛騨で天照大神とは家族のように育ち、ニニギにお供をして筑紫へ行き、筑紫でサルタ彦の妻となり、鈴鹿へ帰ってきたのです。
神通力も強くみんなから尊敬されていたのです。
ウズメは子供達に飛騨の神々や天照大神の偉大さを話し、出雲の国お返し事件の真相を話して聞かせ、皇室をしっかり守れと子供達に教えたのです。
言いつけを守りエッタに落とされたのです。
シラギ神崇拝教の教義とは
シラギ神崇拝教の教義は、山に木や草が青々としているのはイソタケル達が日本中に種をまいたからである。
そのおかげで木で家を作る事ができ野菜を食べることができるのである。
シラギ神のお陰で生きているのだからシラギ神に感謝して当たり前である。
それができない者は人ではないというのです。
しかし飛騨には大昔から木々や草が生い茂っており、飛騨から降りた人達の子孫はそのようなことを信じることができなかったのです。
そしてしだいにシラギ神崇拝教に囲まれてしまい、どうにもこうにもならなくなってしまったのです。
繰り返しますがエッタとは飛騨なのです。
憎んでいる飛騨の人々を「ヒエッタ」「飛騨の山猿」とののしり後に漢字が入って飛騨、日田、等々当て字したのです。そして「ヒエッタ」に穢(けがれ)を当ててケガレ多い穢多と罵ったのです。
そして、シラギ神に参らぬ者は人でなし、人間の皮を被っているだけで禽獣(きんじゅう)に近い者だと罵り天ツ神を祀っている神社を壊しに来たり、天ツ神を守る人々の部落に攻めて天孫を殺し土地を奪ったのです。
道を通らせない、峠を通らせない、水をくれない等の意地悪をし田畑を取り上げたのです。
天孫たちはそれまで住んでいた土地から追い出されて川原や山へ追いやられました。
そして、古神道を奉じる天孫からは嫁も婿も貰わない、行かない、その人達の物を絶対に食べたり飲んだりしない等と交際を絶ったのです。
さらに牛馬の死体処理、行き倒れて死んだ人や死刑囚の取り片付け、獣の皮を剥ぐ事や、草履を作る事等下品な事として強制的にやらせたのです。
中には芸人になって身を立てた人々もあります。
その人々の中には諸国を巡るのに「どこから来たか」と尋ねられ「出雲から」時には「三輪から」と答えたほうが、世渡りがしやすいので、そう答えているうちに、後に天孫が出雲、三輪という苗字になってしまった人もあります。
また出雲、三輪姓の人でも本書の出雲、三輪と何ら関係のない人も当然ながら大勢あります。
こうして、シラギ神崇拝教、出雲教に参らないものは穢れが多い穢多と呼んでバカにして四ツと卑しんでおよそ人間としてこれ以上の蔑みがない極みまで馬鹿にしてトコトンいじめ抜いたのです。
シラギ神崇拝教、出雲教の盛んであった地域に被差別部落が多いのです。
『日本書紀=シラギ教の教義』には、一神官が天皇より偉いと書いてある
『日本書紀』に
二一代雄略天皇が葛城山に狩りにおいでになると姿が天皇に似た人に出会われたので、わざと「どちらの公か」とお尋ねになると「現人神(あらひとがみ=姿をあらわした神)である。
先ずあなたの名を名乗りなさい。そしたら自分も言おう」というので天皇は「朕(おのれ)は幼武尊(ワカタケノミコト)である」と。
すると、次に名乗って「自分は一事主神(ヒトコトヌシノカミ)である」と。
そして一緒に狩りをたのしんだ…
この時、世の人々は誰もが「天皇は徳のあるお方である」と評した、とあります。
雄略天皇が逢った人の姿が天皇とよく似ていた、とは天皇と同じような姿(高貴な服装等)をしていたということです。
天皇の問いかけに対して、自分は現人神であるからあなたが先に名乗りなさい、と、これは天皇を見下して、天皇より上の立場の態度です。
天皇より偉そうにしているのです。
いったい天皇より偉そうにしているのは誰かと思ったら一事主神社の神官なのです。
そして一緒に狩りをして楽しんだようすがまるで対等です。
さらに天皇がシラギ神の社の一神官に対してへりくだり、対等に接すると、世間の人達は天皇を褒めているのです。
これは、二一代雄略天皇の時代ころは三輪山はおろか葛城の神社の一神官までもが、天皇に対して自分は現人神であるから天皇より偉いといばり、そして世間の者たちも社の神官のほうが当然、天皇より偉いと思っているようすが書かれているのです。
当時の世相を『日本書紀』は著しているのです。
二一代雄略天皇の頃になるとシラギ神崇拝教が世間中に広がり、シラギ神崇拝教のたかが一社の一神官が天皇と同じようなもしくはそれ以上に高貴な生活をして威張っていたのです。
そして世間の人々からは現人神と敬われ、天皇以上に尊敬を集めていたのです。
天孫を除いた世間中の人々が熱狂的にシラギ神を信仰していたようすがうかがえます。
さらに『日本書紀』は、皇室を悪口攻めにしています。
詳細は、「シラギ神崇拝教・出雲教が、皇位を奪おうと『日本書紀』に天皇の悪口を書いた」
まとめ
- シラギ神崇拝教はもとはといえば飛騨が憎いのです。
飛騨と大和朝廷に恨みをもっているのです。
飛騨から降りた人々は天ツ神々を奉じて「八咫鏡」を守り、天ツ神を絶対に捨てないのです。出雲のシラギ神を拝まないのです。
シラギ神になびかない人々が執拗に迫害を受けてエッタに落とされたのです。 - 天孫が守る社(やしろ)から主祭神である天ツ神を追い出してシラギ神、後には出雲神が入るか、ときには神社の名を替え、ときには神主家を追い出して神社を乗っ取るか、時には色仕掛で娘を騙して婿に入って乗っ取るというように、なりふりかまわず道徳も踏みにじり巧に嘘をついたのです。
そのずるいこと、ずるいこと。 - 大和を開拓された天照大神の子供さんや孫さん、その親族の天ツ神々が、徹底的に抹殺されています。
ニギハヤヒの御陵さえわかりません。 - 後の三二代崇峻(スシュン)天皇の御代にニギハヤヒの子孫である物部守屋(モノノベモリヤ)が仏教を取り入れることに反対して賛成する蘇我(ソガ)と武力衝突して負けたことは天孫にとっても大きな痛手でした。
物部一族(もののべいちぞく)は散り散りに逃げてニギハヤヒの御陵を守る人がいなかったのです。 - 天孫の中には命が危なく慌ててしかたなく出雲に迎合して行く人もありました。
心では天照大神を拝みながら、シラギ神後には出雲神にも表向きちょっと参ったふりして、また天ツ神にシラギ・出雲神を添えて何とか難を逃れた村もありましたが、多くの天孫は天照大神の偉大さや御恩、大和(やまと)を開かれた先祖の御苦労と御恩を思う時、たとえどんなにいじめられても天ツ神を廃してシラギ神や出雲神を拝む事など絶対にできないのでした。 - 歴代天皇の御陵をしっかりとお守りしたのはその天皇の親族の方々です。
御陵を守ってシラギ神崇拝教になびかない人々、天皇のお住居の周りに住んで天皇を助けた人々やその子孫、天照大神の子供や孫、天照大神の孫のニギハヤヒのお血筋の物部一族、高木命を初めとする天ツ神々の子孫や縁者は天ツ神々を守り通したのです。
(山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用)