シラギ神から出雲神に乗り換え、古代史ふたつ目のねじれ | 古代被差別部落とは、最終章

シラギ神から出雲神へ

『出雲国大社集神』制作年代 安政4年(1857) 作者名/落款 五雲亭貞秀  神奈川県立歴史博物館

日本人のルーツと日本起源が「飛騨の口碑」として代々伝え残されていたことから、古事記日本書紀は神話化・ボカされ・ねじれていることが解りました。

「飛騨の口碑」を託された山本健造氏は、数十年に渡って全国を調査し「飛騨の口碑」が史実として古事記・日本書紀より正しい事を確信しました。

さらに、飛騨から大勢の人が降りて(降臨)日本全国に広がり国造りを行った建国の功労者が、エッタ・ヒエッタと罵られ被差別部落に落とされていることが解りました。

  • なぜ、飛騨=エッタ・ヒエッタと罵られ被差別部落に落とされたのか?
  • なぜ、古代史は2回もねじれてしまったのか?

その理由を、著書として残しました。

今回は、
伊勢神宮の外宮とはシラギ神教の見張所だった| 古代被差別部落とは、その4
の続きと、「古代史の二つ目のねじれ」を山本健造原著/山本貴美子著
『裏古事記ねじれねじれて二千年』『暴かれた古代史 二千年の涙』福来出版
から紹介いたします。

当ブログは、下記と同意見であります。
古代史はお伽話化されています。
二千年前の事がお伽話であろうはずがなく古代史を誤魔化して隠した者がいたのです。
ところが表向き歴史をかくし、そして神事の中に真実の歴史を残したのです。
それに気づき解読して本書に書きました。
私流に解読したものです。
本文中に断定しているような箇所がありましても総て推定です。
本書は過去の歴史であり現在のどの社も、宗教も、どのお方とも関係がありませんのでお断りをしておきます。
(山本健造原著/山本貴美子著 2010『暴かれた古代史』福来出版 まえがき~引用)

シラギ神崇拝教 皇室に入り込み 国政に食い込む

皇室に入り込む蘇我

加藤 亜紀著『大判 ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる古事記・日本書紀』西東社から引用【画像クリックで購入サイトへいきます】

皇室ではシラギ神の血を皇室に入れないように骨折っておられたのですが十一代垂仁(すいにん)天皇の御代に決定的に古神道が負けてしまうと、十二代景行(けいこく)天皇の御代にはシラギ神崇拝教の幹部の娘を天皇の側室に入れます。

そして十六代仁徳(にんとく)天皇は皇后に迎えます。
そして十七代履中(りちゅう)天皇の御代になるとシラギ神崇拝教の者が国政に携わるようになるのです。この頃から天皇や皇太子の悪口攻めなどが始まったと思われます。

シラギ神崇拝教はだんだん中枢に食い込んでくるのです。
天皇中心の国政の中枢に天皇の位を窺(うかが)って皇位の印である「八咫鏡」をつけ狙っているシラギ神崇拝教の幹部が入り込んでいるのですからたまったものではありません。

それはもう大変なことになっていたのです。
さらに民衆の信者を味方につけて巨大な力を持っているシラギ神崇拝教が皇位を狙って、天皇や皇太子を陥れようとしているのですから、さあ大変なことになっていたのです。

二八代宣化(せんか)天皇の御代になると蘇我稲目(ソガイナメ)が大臣にまでのしあがってきます。

蘇我とは、出雲のイソタケルのソであることを強調して「我はソ(蘇)であるぞ」と、「ソ」を強調しているのです。

ソ氏は宗教で大和一の宮を乗っ取って古神道を押さえ、次は大和朝廷の政の最中枢である大臣にのし上がってきたのです。

稲目(イナメ)はひきつづき二九代欽明(きんめい)天皇の御代に大臣を務め、
娘を天皇の側室に入れて大兄皇子(三一代用明天皇)や
豊御食炊屋姫尊(トヨミケカシキヤヒメノミコト・三十代敏達天皇の皇后で三三代推古天皇)他が生まれます。

さらに稲目のもう一人の娘も側室に入れて
泥部穴穂部皇女(ハシヒトノアナホベノヒメミコ・用明天皇の皇后で聖徳太子の母)
泊瀬部皇子(ハツセベノミコト・三二代崇峻天皇)が生まれます。

稲目が死ぬと、その子馬子は四代の天皇に大臣として仕えます。
蘇我は政治の中枢に入り込んだのみならず、馬子の代になると用明天皇、皇后、大臣のポストを蘇我一族で握ったのです。

(山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用)

馬子(ウマコ)天皇を殺す大反逆罪もお咎めなく、そのまま大臣

崇峻天皇殺される

崇峻天皇暗殺の場面『聖徳太子絵伝』より・・就寝中の崇峻天皇が暗殺される様子

馬子大臣は甥にあたる崇峻天皇を殺しました
そしてその日のうちに葬ってしまったのです。

畏(おそ)れ多くも天皇たるお方を臣下が殺したとは異常事態です。
しかも馬子に何らお咎(とが)めがないのです。
これは革命です!

この頃、蘇我が実質政治の実権を握っていたのです。
天皇は権力はおろか権威までも失墜していたのです。
そのあとを女帝の三三代推古(すいこ)天皇を立て、蘇我出身の父と母を持つ聖徳太子が摂政になったのです。
そして大反逆の大罪人の馬子は推古天皇の御代にそのまま大臣を務めています。
驚くべきことです。

大和朝廷の実権は、蘇我一族が握っていたのです。

馬子の子の蝦夷(エミシ)も大臣を務め、天子きどりで国政を欲しいままにしたのです。
その子の入鹿(イルカ)は横暴で勢いは大臣である父の蝦夷(エミシ)よりも強かったといいます。

あとほんの少しで、それは「八咫鏡」この鏡さえ手に入れば、名実ともに天皇なのでした

オオクニヌシを父に新羅のソに生まれた少彦名(イソタケル)や兄弟の一族の子孫が、もう実質は政治の権限は蘇我にあるのです。
蘇我が日本の天皇に取って替わろうとする
その時が、
今 まさに つい目前にせまっていたのです。

(山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用)

蘇我 滅亡、皇位を狙う馬鹿(バカ=馬子・蝦夷・入鹿のこと)

蘇我入鹿の暗殺

加藤 亜紀著『大判 ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる古事記・日本書紀』西東社から引用【画像クリックで購入サイトへいきます】

蘇我蝦夷の自害

加藤 亜紀著『大判 ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる古事記・日本書紀』西東社から引用【画像クリックで購入サイトへいきます】

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が入鹿(イルカ)に切りつけて殺したのです。
藤原鎌足(ふじわらかまたり)と諮(はか)っていたのです。
大極殿(だいごくてん)において、三五代皇極(こうぎょく)天皇の御前で三韓(さんかん)の上表文を読み上げている時のことでした。
ここに蘇我が滅びたのです。

馬子の墓

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

蘇我蝦夷(ソガエミシ)の本名は蘇我豊浦(ソガトヨウラ)です。
入鹿(イルカ)の本名は鞍作(クラツクリ)です。

それが、『日本書紀』に馬子、蝦夷、入鹿とあるのは、蝦夷とは都から遠い遠い所の野蛮な人を意味しています。

海の向こうの遠い新羅の国から来た人が、天皇を殺し、さらに皇位をうかがうとはなんとふとどきな愚かな野蛮の最たる奴、それは馬子、蝦夷、入鹿のことであり、馬(子)・蝦夷・(入)鹿を馬鹿と呼び、大バカ者と世間の人々が罵ったと思われます。
馬鹿の語源か?

あわや天皇の位が蘇我に乗っ取られる寸前でした。
中大兄皇子と藤原鎌足の勇気ある行動で日本が、皇室が守られたのです。
もうほんの少しで日本が日本でなくなる取り返しのつかないことになるところだったのです…

(山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用)

蘇我馬子の墓

『市販本 中学社会 新しい歴史教科書』自由社 引用 画像クリックで購入サイトへリンクします

蘇我の失墜と仏教伝来によりシラギ神教 地に落ちる

仏教伝来でシラギ教衰退

『市販本 中学社会 新しい歴史教科書』自由社 引用 画像クリックで購入サイトへリンクします

大和朝廷初期のころ出雲から多くの大陸文明がもたらされシラギ神崇拝教とドッキングして全盛をきわめたことはすでに書いてきました。

時代が流れて大陸文化が、出雲経由ではなく直接朝鮮から入るようになります。
そして二九代欽明(きんめい)天皇の御代(西暦五三八年)には仏教が入ります。

さらに三三代推古(すいこ)天皇の御代になると聖徳太子は日本から直接中国の隋へ使者を送るほどに時代が移り変わってきていました。

人々は舶来を喜ぶ心は変わりませんが、大陸の偉大な文化・文明が朝鮮半島を経ずに中国から直接輸入されるように時代が移ってきたのです。

新たな仏教がだんだんと盛んになり、古代からのイソタケル信仰はもうすっかり冷めていたのです。

そこへ「蘇我入鹿の暗殺」はシラギ神を祀る社にとっては大打撃であったことは想像に難くなく、
シラギ神崇拝教は、ソであることを強調していた蘇我とともに信用を失墜して地に落ちたのです。

(山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用)

諦めないシラギ神教、悪知恵はたらき出雲神へ乗り換える。そして、古代史に二つ目のねじれが生じた

三輪山の祭神

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

現在の大神神社(おおみわじんじゃ)は、祭神が大物主神、配祀(はいし)が大巳貴神と少彦名神です。

由緒には大物主神も大巳貴神もオオクニヌシとあり二重に祀られています。

古事記』には海の上一面を照らしてきた神をオオクニヌシが祀ったと書かれ、オオクニヌシは祭主であったのです。
そのオオクニヌシが祭神になっているのです。
いったい何時のまに変えられたのでしょうか?

『古事記』に「オオクニヌシは赤い矢に化けて便所に隠れていて、女のホト(陰部)をついた」と下品な話を伝えています。

死後七五〇年ほど経ってもまだ『古事記』に書かれるほど後々の世まで変態・色キチガイ話しが語り継がれていたのです。

この話だけは消したいのでしょうが、後々まで残っているほど、別名、葦原醜男(アシハラシコオ)といい、日本中で一番醜い淫乱男と軽蔑されていたのです。

出雲はこのトイレの話しだけは『古事記』に入れたくなかったであろうに入れざるを得ないほど根強く、あだ名の葦原醜男とともに残っていたのです。

その記憶が残る間は大和に表立って祀られるはずはないのです。
ではいったい、何時オオクニヌシが祭神になったのかが問題です。

蘇我滅亡とともに三輪山やシラギ神を祀る社は信用が地に落ち、イソタケルやシラギ神では立ち行かなくなってきたのです。

困り果てた三輪山の神官たちが考えたのです。
そしてイソタケルを元の名の少彦名に変えれば…

少彦名がイソタケルの本名と知る人はいなく、少彦名ならシラギ神とはわからず日本の神でとおる… 

まず尊称から本名に祭神の名前を変えました。

出雲の神といえばスサノオかオオクニヌシです。
オオクニヌシはまだ醜男の評判が残っていますから神としての信用がないのです。

スサノオは天照大神の弟で飛騨の人間なのでスサノオを神にしたくないのです。
ここは何としてもオオクニヌシにしたいのです。

御諸山を乗っ取る時に「大物主神とは(ニギハヤヒではなく)イソタケルである」と騙したのです。

こんどは「大物主神とはオオクニヌシ」とすればよいのです。

破廉恥話が残っているとはいえオオクニヌシのほうがスサノオを祀るより出雲としては感情的によかったのです。

とにかく思い切って大物主イソタケルからオオクニヌシに切り替えたのです。
大巳貴神とは偉大な尊敬すべき天照大神の尊称なのですがそれもオオクニヌシの別名として取ってしまったのです。

こうして大神神社はシラギ神から出雲神に祭神を上手に切り替えたと推定されます。

当然のことながらシラギ神を祀る他の社も出雲の神にこっそり切り替えたのです。
とにかく蘇我滅亡、大化の改新で大きく世の中が変わってきたのです。

三輪山の社に、また他の社に、このあとすぐ出てくる出雲大社に、昔はシラギ神が祀ってあり、かつては大変な勢いであったなどとは、現在では誰一人として思いもよりません。

三輪山に今なお祀られている少彦名も実は尊称はイソタケルといってシラギの神であるなんて全然わかりませんが、少彦名について『記紀』は大きく取り上げています。

シラギ神崇拝教のなごりを残しながらまたオオクニヌシの醜男のうわさはまだ少し残しながらも最初はこっそりと祭神を変え…

また時間が流れて世間が忘れかけたころ堂々と大物主神とは出雲のオオクニヌシです、大己貴もオオクニヌシの別名ですと、堂々と大宣伝をしたのです。

そして教義もシラギ神崇拝教義から出雲教義に変えたのです。

しかし三輪の社に大和の他のシラギ神の社ともどもかつての栄華が戻ってくることはなかったのです。

これが二つ目のねじれなのです。

私達は『記紀』を日本最古の古典として読み、その綴ってある表面の字面だけを読んでいるため本当の歴史が解らなくなってしまっているのです。

二つのねじれがあることを知らずに歴史が解らなくなってしまっているのです

大和の大神神社を勧請(かんじょう)している分社は、シラギ神の時代か出雲神の時代かいつ分社されたのか時期は定かではありませんが、全国に四〇〇社以上あります。
(『大神神社資料・第九巻・分祀要覧』)
こうして三輪の社はシラギ神から出雲神に上手に切り替えたのです。

(山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用)

曾(ソ)の宮から出雲大社に変身、そしてオオクニヌシを美化

曾の宮から出雲大社へ

出雲神にすり替えたシラギ

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

三輪の社ばかりではなく出雲でも曾の宮の祭神イソタケルを何とかせねばならないのでした。最初は慌ててスサノオに替えその後オオクニヌシに替えたと思われます。

さて、オオクニヌシといえば、

  • あちこちの豪族の娘を渡り歩き、新羅までいって向こうの女に子供を産ませた。
    その子供は一八一人もいる。
  • 飛騨のスメラ命の娘タギリ姫と政略結婚したのに、正妻をスセリ姫に変えると言い出し、父親のスサノオが猛反対したのに聞き入れず、スセリ姫を正妻にして逃げた。
  • さらにタギリ姫との間に立派な息子がいるのにその子を後継者にせず、コトシロヌシを後継者にして、本家の飛騨を完全に裏切った。
  • そもそも出雲の意宇国(おうのくに)は飛騨の延長であり総本家飛騨の支配下にあった。
    その意宇の統治者であるオオクニヌシは統治者としての自覚がなく、統治者にふさわしくないので、飛騨では圧倒的な武力を背景にオオクニヌシから統治権を取り上げた。
  • 温情で命だけは助けて、床の高い幽閉所を(飛騨が)造ってオオクニヌシを幽閉した。
  • 葦原醜男とあだ名され爪剥祭(つまむぎさい)として残る程の淫乱ぶりであった。

これがオオクニヌシの実像です。

それを『出雲大社由緒略記』には(簡単に書くと)

  • オオクニヌシは自ら鋤(すき)や鍬(くわ)をとって荒れ果てた未開の山野を開拓した
  • 人々に農耕の方法を教えた
  • 人々が最も悩み苦しむ病気や災厄からのがれるためには医薬・まじないの法をさずけた、温泉を創めた
  • 人々の生活が豊かになるように導いた
  • 御子神達(みこがみたち)を諸国に遣わしてオオクニヌシの御心の顕現に尽くさせた
  • これによりオオクニヌシの恵みは国内のすみずみまで行きわたって豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)と讃える国土が国造りされた
  • オオクニヌシは辛苦御経営(しんくごけいえい)になった国土を皇孫におかえしになり、幽冥の主宰神になり、国の守り神として万民の幸福をお護りになることになった
  • そこで天照大神はオオクニヌシの至誠を非常にお悦びになり諸神(もろがみ)に命じて現在の社の地に広大な宮殿を造ってくれた
  • 天照大神の御子(みこ)ホヒを神官にした。これが出雲大社の起源である。

とありオオクニヌシを大人格者に仕立て上げています。

『由緒』にオオクニヌシとオオクニヌシの大勢の子供達を諸国に派遣して辛苦御経営して豊葦原瑞穂国と讃える立派な国土を国造りされたと書いてありますが、オオクニヌシの意宇国そのものが出雲のごく小さい小国であり、ひどくおおげさに針小棒大(しんしょうぼうだい)にウソと言った方がいいくらいに書かれています。

(山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用)

古代史の真相は飛騨(高天原)に口碑として伝わっていた

原著者=山本健造/編集者=山本貴美子「日本のルーツ飛騨」福来出版より

古代史の真相は、日本の将来を見据えて国作りに骨折られたのは飛騨の神々です。

初代大淡上方様が国作りをはじめられて飛騨をまとめ、十五代様の命を受けた方々が鈴鹿に降りて、さらに瀬戸内海、若狭湾、山本山、等々、海辺を守り開拓されたのです。

派遣された方々は子々孫々数百年にもわたって飛騨に忠誠を尽くし続けられたのです。
さらに三五代天照大神の子や孫たちが将来大和に都を開くために、近畿一帯へ降りて開拓されたのです。

苦労して開拓した土地を自分の国にせず、筑紫を平定して大和へお帰りになったサヌに一切をささげて、自分はサヌにお仕えし、サヌは神武天皇として君臨されたのです。

豊葦原瑞穂国(とよああしはらみずほのくに)と讃える立派な国ができたのは飛騨の方々が数百年にわたってスメラ命を中心にして骨折ってくださったお陰なのです。
これが真実の歴史なのです。

ところが淫乱幽閉のオオクニヌシを祭神にするために由緒に書かれているような作り話を創作してオオクニヌシは何て立派な人だろうか!
これ以上立派な人はいない大人格者である!
天照大神が感謝してもしきれない程偉い人である!
だから、天照大神は、オオクニヌシを祀る広大な御殿を造って、さらに息子のホヒに祀らせた。ということにしてオオクニヌシ像を仕立て上げたのです。
これは、何と旨い作り話でしょうか!
(筆者は飛騨の口碑から推察して昔のことをいっているので現在の出雲大社とは関係ありません)
飛騨の天ツ神々の功績を取って逆転させたのです。
こうして日本中で一番醜い醜男を、天照大神の権威までも利用し出雲教の偉大な大神にまつりあげたのです。

そしてそれを言いふらし…て定着させたのです。
さらにそれを由緒に書いて権威づけたのです。
とんでもなく悪賢い逆転の思いつきです。

さらにホヒの子孫が今、現に代々の神主家です。二千年にわたって今日まで続いているのですから誰一人疑う者もなく今日まできたのです。

出雲ではこうしてシラギ神からオオクニヌシに祭神を切り替え「曾の宮」から「出雲大社」に変身したのです。

今でも出雲大社の真後ろにソガ社があり、かつてイソタケルを祀る本殿であったことをうかがい知ることができます。

全国にオオクニヌシを祀る社が一五四九社、大己貴(オオクニヌシ)を祀る社が三八六四社あります。

ついでに、オオクニヌシの後継者のコトシロヌシを祀る社は全国に二一二二社あります。(『全国祭祀祭礼総合調査』)

(山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用)

名前乗っ取りは、だましの手口

由緒略記

昭和56年『出雲大社由緒略記』引用

『日本書紀』にオオクニヌシは大物主神、国作大巳貴命、葦原醜男、八千戈神、大国玉神、顕国玉神ともいう、とあります。

なぜ、こんなにたくさん名前があるのでしょうか。

出雲大社由緒略記』には「このようにご神名が多いことは、大神(オオクニヌシ)のご神徳がいかに広大であるかを明示するもので、その一つ一つに大神のご神徳を拝することができます」と書かれています。

名前が多いのはご神徳である、偉大さを表しているとあるのです。
それで参拝者はたくさんの名前はご神徳であるからと信じて疑わないのです。

大巳貴命(おおなむちのみこと)とは天照大神の尊称であり、大物主神も、大国魂神も、ニギハヤヒの尊称なのです。

尊称は役職や手柄(ご神徳)につけられたものですから他人の偉大な敬称を横取りしてそっくり手柄(ご神徳)まで横取りしたのです。

横取りした尊称はオオクニヌシがいかに立派な神であるかを示し、オオクニヌシを美化するのにまこと都合がよいのです。

淫乱に付けられた葦原醜男さえ後には本来の意味が忘れられて御神徳になっているのです。

さらに淫乱が、英雄色を好むと讃えられて縁結びの神になるのですから噴飯です。

時には社を上手に乗っ取り、祭神にオオクニヌシという名をもろに表に出せないために社にお祀りされていた神の尊称をそのままにしておいて、他方でその尊称はオオクニヌシの別名ですと間接的に宣伝すれば、社を乗っ取り、尊称を乗っ取ったことになるのです。

賢いだましの手段なのです。
ほんとうに悪賢いのです。
乗っ取りの手段なのです。
シラギ神崇拝教、後に出雲教はまったく上手に古神道の社の祭神に出雲の神を入れて乗っ取ったのです。

それに昔は現在のように印刷した由緒書きがあるわけではなく社の祭神を入れ替えて誤魔化すのには情報が未発達ということが都合よかったのです。

大黒様とは、オオ(大)クニ(黒)ヌシ(様)を仮装させて出雲教が作った

大黒様はオオクニヌシ

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

日本中がシラギ神崇拝教一色になったかと思われる時が長く続きましたが、熱狂も時間がたつとさめて、仏教が伝来すると人々の関心は新しい仏教に向きました。

蘇我滅亡からシラギ神崇拝教を出雲教に変身させたしたたか出雲教も負けてはいませんでした。

そもそもオオクニヌシとは出雲が九つに分かれていた頃の一地方である意宇という(小さい)国の主である、意宇国主(オウクニヌシ)ということなのです。

漢字が伝来してから、シラギ神崇拝教・出雲教は、オウクニヌシつまり意宇の国の主を、大国(オオクニ)と当て字し、あたかも大きな国の主であるかのような大国主(オオクニヌシ)としました。

さらに仏教やインド思想が入ると大国(オオクニ)を→大国(ダイコク)と読み、さらに大国を大黒(ダイコク)と当て字して大黒様(ダイコクサマ)に仮装させ、コトシロヌシが魚釣りをしたことから、鯛を持たせて恵比須(エビス)様に仮装させ、オオクニヌシとコトシロヌシ信仰が色あせてくると大黒様、恵比須様と真新しく化粧をしなおして盛んに活動したのです。

余談ですが
大きな袋を肩にかけ 大黒様が来かかると…
これも誰でもよく知っています。

『古事記』に出てくる話を歌にしたものです。
オオクニヌシを美化したのです。
オオクニヌシを大黒様に仕立て歌を作って流行かしたのです。

出雲のスゴ腕
感嘆すべきは出雲の頭脳と宣伝力です。
そのアイデアです。
その昔日本初の新興宗教シラギ神崇拝教を作ったその発想と手腕です。
そして口コミの宣伝力、宣伝の内容、なりふり構わない恐るべき色仕掛けと実行力、
そして歌を唄わせての宣伝力、とにかく凄腕です。
豪腕です。
不道徳なことは真似できませんが、見習うこともありそうです。

(山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用)

京都の社が幅をきかせる

都が京都に移されると京都の社が幅をきかせました。
鴨行幸(かもぎょうこう)という言葉が生まれるほどでした。

下鴨神社の分霊社は奈良時代から鎌倉時代にかけ、全国各地に一一八六社分霊されています。(下鴨神社パンフレット)上賀茂神社(賀茂別雷神社)の祭神、賀茂別雷神(カモワケイカヅチノカミ)を祀っている神社は全国に六八八社あります。
(『全国神社祭祀祭礼総合調査』神社本庁編)
京都の社(やしろ)もほとんどシラギ神崇拝教、出雲教です。
京都の神社が活躍したことがうかがえます。

飛騨の天神(アマツカミ)を天神様(テンジンサマ)とすり替えた出雲教

菅原道真

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

さらに平安時代以降、菅原道真を担いで学問の神に祭り上げました。
天神(アマツカミ)とは飛騨の神であり、天孫の神なのに、天神(アマツカミ)と書いて天神(テンジン)と呼び「天神様イコール菅原道真」菅原道真を天神様に仕立てて天神(アマツカミ)を乗っ取りました。

そして世の移り変わりにうまく合わせて天孫の天神(アマツカミ)を祀る神社に天神様こと菅原道真を祀り込んでその結果天神社、天満宮として社を乗っ取ったと思われます。

それが天神様とは学問の神様の菅原道真として定着し、菅原道真を祀る神社は全国に六四〇七社あります。
(全国神社祭祀祭礼総合調査)

菅原道真は野見宿禰(ノミノスクネ)から六代目の子孫です。
出雲の神なのです。(『大日本百科事典』小学館)

そして今なお信仰を集めています。
そのしたたかさ!
もう もう 凄い! すごい! スゴ~イ!

”とおりゃんせ とおりゃんせ…”

この童うたは、出雲教の大人達が、天孫達にこの道は通さないといじめたようすを、童が敏感に感じ取って、唄って遊んだ歌ではないかと思います。

何もわからない幼い子供たちが、このような歌を唄うほど、いじめがおっぴらにひどかったと思われます。

他にも有名な物語があります。
”もしもし 亀よ 亀さんよ…”

ウサギが「ここらでちょいとひと眠り」してしまい、最後は亀が勝つのです。
ウサギをずるく描き、ずるいゆえに皮をむかれて苦しんだり、競争に負けさせています。

ワニザメと亀は、海の向こうから渡って来た人や文明を意味し、ウサギは山から降りた天孫意味しているかのようです。

出雲教が天孫をいじめるのは、天孫がずるくて、悪いからだ、と言わんばかりに、出雲教の天孫いじめを正当化したのでしょうか。
いつの時でも亀が勝つのです。
どんな時でも亀が勝つのです。

これらの歌や物語を知らない人がないくらい出雲思想が日本中に徹底してしみ込んでいるのです。

それに引き替え実際に建国のために御苦労なされた天神々(アマツカミガミ)は忘れ去られたのです。

なおかつ子々孫々エッタに落とされ人格を否定されて
二千年近くも塗炭(とたん)の苦しみに呻吟(しんぎん)されようとは…
噫!
なんたることでしょうか!
言葉にならない…
この無念!

平安時代の出雲大社本殿は奈良の大仏殿より大きかったと『口遊』に記されています。
天皇の権威がより確立されて、出雲といえども天皇の位に簡単に手が届かなくなります。

さらに時代が流れて武士の時代がきます。
いつごろからでしょうか、出雲はいつしか皇位乗っ取りをあきらめて「八咫鏡」を狙わなくなったのです。

「八咫鏡」はあきらめても出雲教はさまざまな手をつかって盛んに布教をおこなったのです。その裏では天孫のエッタ部落をいじめながら、さらに新たにエッタ部落を作りながら、神社を乗っ取りながら活発に活動しつづけたのです

(山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用)

しかたなく、天神様(テンジンサマ)で被差別部落から逃れる

天神様

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

ある天孫村が被差別部落に落とされてからどのくらいの年月が経ったでしょうか、
長い間いじめ続けられてきたのです。

それまでもずうっといじめられてきたのですが、ある時からまたさらなる執拗な出雲教のいじめにあったのです。

耐えに耐えてきたのですがもう耐えかねてこれ以上耐えられない、村が潰され、皆殺しに遭うかもしれないところまで追い込まれたのです。

或る天孫村では自分たちの生命もこれ以上は危ないという限界に達したのです。
しかたなく菅原道真の天神様を祀ることにしてついに三輪山の傘下に、出雲教の傘下に下った部落も少なからずあります。

その村には「菅原道真ならよい、オオクニヌシやコトシロヌシなら死んでもダメだが」と今に伝えています。

江戸時代まだ乗っ取りは続いた

シラギ神崇拝教はなびかない人々をエッタと罵(ののし)り、人間社会からはじき出して布教し、出雲神に変身した後も途中で「八咫鏡」はあきらめましたが、オオクニヌシ、コトシロヌシ、カモ、大黒様、恵比寿様、菅原道真等を担いで全国津々浦々に宣伝しました。

山奥にはイソタケルを木の神として、時と場所に応じてシラギ神や出雲神がさまざまな形で多くの社に入り込み、氏神を隠して、そして多くの人々をエッタに陥れました。

したたか出雲教は、江戸時代になお活発に活動して、全国あちこちのお宮さんの名前を変えさせ、祭神を替えさせ、時には神主家を追い出して社に入り込んだりしているのです。

神主家は追い出され、祭神が変えられ今なおそのままです。
全国の多くの由緒ある社にオオクニヌシや出雲の神が祭神として入り込んでいます。

(山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用)

古神道の敗北で歴史は忘れられ「天孫いじめ」だけ残った

忘れられた肇国の恩人

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

十一代垂仁天皇の御代に天孫たちが宗教争いに負けて古神道が敗北し、天孫たちはシラギ神崇拝教に後には出雲教に囲まれていじめられました。

「八咫鏡」を守る皇女(ひめみこ)を守った人々もエッタに落とされました。
その後、神宮が建てられ表向き「八咫鏡」が祀られている事になっていましたが、実際は民間のどこかに隠されて、外宮も内宮にはない事を知っており、騙し合いながら月日が経ちました。

  • いつしか出雲も「八咫鏡」を取ることを忘れ、天孫も出雲を恐れず、いつのまにか昔の宗教対立が風化して忘れ去られてしまいました。
  • もはや天孫をいじめる理由がなくなったのです。
    ところが風化せずに残ったものがありました。
  • 人間の感情でした。
  • 人間の感情に入り込んだいじめだけが残ったのです。

何故差別されるのか、何故エッタに落とされたのか、原因さえも忘却してしまい、過去からずっとバカにしてきた恐ろしい因習だけが残ったのです。

貧乏であるとバカにされ、不衛生とバカにされ、穢多とバカにされて、いじめるためにいじめるという、人々の感情の中に食い込んだ「いじめ」だけは風化することなく残って続いたのです。

さらに時代が流れて江戸時代に、士、農、工、商、と身分制度が確立されて固定化されてしまったのです。

とにかく原因がなくなってしまっているのに、エッタをいじめる習慣と感情だけが残ったのです。

いじめられる理由が長い歴史の中で古すぎて忘れられわからなくなってしまったのです。

現在、その悪因習は少なくなったとはいうものの今なお隠然(いんぜん)として残っているのです。

恐ろしいことです。

(山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用)

神社に未来は… 隠された神は…

神社に未来は

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

天孫のエッタへの転落は同時に天孫が祀った古神道の神々の抹殺であり「天孫二千年の悲劇」はまさにニギハヤヒを始めとする「二千年の神隠し」でもあったのです。

被差別部落問題は人権問題で解決されつつあるのですが、シラギ神・出雲神に追い出された古神道の神々は何ら問題にされることなく今なお隠されたまま続いているのです。
あまりにも無念です。
残念です。

そして実際に国土を開拓された真の神々を忘れて、一生女遊びをしていた男や魚釣りをして遊んでいた男や、女好きの男が外国の女に生ませた子供が神と祀られているのです。

立派な神官様たちがうやうやしく祝詞をあげ、人々が真剣に参ると祭神様方もさぞ尻こそばく居心地もおよろしくないと思います、筆者の推論ですが…

筆者はなんたる無念と思いながら書いてきましたがここにきて祭神様もお気の毒ですらあります。

なにせスリ替えたのは生きた人間がやったのですから祭神様は利用された被害者?

ですから、いかがでしょうか?

それに何と言っても信仰は自由です。

多くの人が今まで古神道と思いこんできたのですが、参拝者が真剣に考え出して歴史を研究し出すと神社の未来はどうなるのでしょうか?

(山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用)

まとめ

正しい古代史の普及

平成13年出版『ねじれ古代史』からの転載したものです。山本健造氏と山本貴美子氏により、平成17年ささやかながら「天孫宮」が創建されました。【画像クリックで天孫宮の写真にいきます。】

コメント

  1. 在野 より:

    白山神社祭神が伊耶那岐命、菊理姫命の兄弟神という事と古い白山神社の分布、天皇に地位を授けるクリア山の神という話を念頭に置くと、「飛騨高天原」説や出雲が飛騨天孫の開拓地であるという説も頷ける面があります。

    この飛騨口伝に秀真伝や出雲口伝を加味して考えると、飛騨先住民、天孫族、出雲族の関係性が浮かび上がるように思います。

    出雲(伊豆毛)の父神は「伊」耶那岐命の子:久那斗神(伽耶王子)、母神は佐比売で辰韓:斯羅国王女、大国主には伊和大神という別名がありますから、出雲とは伊族という意味でしょうね。そうすると、新羅(辰韓:斯羅国)妻は「和」族になる可能性があります。和=倭=黄夷と考えれば、その大元の出自は山東半島あたりになりそうです。

    大国主は襲名ですから、何代目の大国主かを見極める必要がありますが、多紀理毘売命の夫は天冬衣命だと思います。その子が下照姫(天道日女:天火明命妻)と積羽八重事代主神ですから、加茂命は積羽八重事代主神に当たると思います。

    なお、飛騨に縁深い髙木神の娘:栲幡千千姫命(天忍穂耳命の妃)の新羅(辰韓:斯羅国)色をどう位置づけるかという問題があります。

    ちなみに、「カモ」(加茂、賀茂、鴨)の実質は、扶余族だと思います。荒城=阿多=弁辰:安耶国族は、扶余系譜です。

    • 山下住 より:

      コメントありがとうございます。
      古代史をご研究されている方と察します。
      ここまで深くご研究されている方なら是非、『明らかにされた神武以前』『日本起源の謎を解く』『暴かれた古代史』を読んで頂きたいと存じます。
      私の紹介ブログ以上に参考になると思います。
      簡単ではありますが、失礼いたします。

  2. 三島 より:

    回答有難うございました。
    あくまで神武以前の口碑なんですね。
    右側に紹介されている書籍では1冊だけ最近購入済ではあったのですが、他はまだ購入していないので、是非読んでみたいと思います。
    加茂という名前は有名すぎるぐらい有名ですが、不幸な悲しい運命の子という意味になることに驚きました。
    日本サッカー協会の加茂周監督のステキな笑顔を見てると、そんな発想が出てきません。^^;
    大国主が農耕を教えたと聞いていましたが、その前から農作物はあったんですね。
    それにしても、歴史は、勝者と敗者の両方の話を聞いて検討していかないと、正しい歴史にはたどり着けないですね。
    何事も、一方の言い分だけを聞いて判断するということがいかに危険かを思い知らされます。

    話が飛びますが、私のHN・三島。
    私や父が生まれ育ったところに、三嶋神社があったのです。
    少し進むと白山神社があり、更に進むと日枝神社があるのです。
    また、母が生まれ育った山には、鳥居がなくて段ボール箱ぐらいの社があるだけですが、そこに木花咲耶姫が祀られているようです。
    三島といい、白山といい、日枝といい、木花咲耶姫といい、飛騨王朝に関係してくる名前だなぁと思い、飛騨王朝に関心を持つようになった次第です。

    まとまりのない文章になってしまいましたが、とにかくまずは原著を読んでみようと思います。
    有難うございました。

    • 山下住 より:

      三島様

      >加茂という名前は有名すぎるぐらい有名ですが、不幸な悲しい運命の子という意味になることに驚きました。
       天照大神の娘(タギリ姫)の長男、阿遅志貴命(アジスキ命=かもの命)の時代であり、現在の特定の人に当てはまる事では無い事を申し上げます。
      また、「加茂」は漢字が日本に入ってきてからのもの。
      詳しくは、『日本のルーツ飛騨』こちらの著書には挿絵が豊富にあり読みやすいです。
      『明らかにされた神武以前」では、P174に書かれています。
      私のブログではココに紹介しています。
      http://roots-hida.info/country-surrender/
      (真ん中辺)

      >三島といい、白山といい、日枝といい、木花咲耶姫といい、飛騨王朝に関係してくる名前だなぁと思い、飛騨王朝に関心を持つようになった次第です。
       そうですね、この文章からは飛騨王朝を連想できますね。
      『日本のルーツ飛騨』と『裏古事記 ねじれねじれて二千年』の著書をお勧めいたします。

      「裏古事記日本人のルーツ飛騨」に興味を持っていただき有難うございました。
      三島様のご研究が進み、発表されることを楽しみにしております。

  3. 三島 より:

    記事と関係ない話を書きます。ご了承ください。
    出雲族について、色んな説がありすぎて、真実がどれなのか、わからなくなっています。
    以前、「被差別民の真実-彼らは出雲族だった!!」(http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/2015266.html)というブログ記事に、コメントを残したことがあります。
    私は、ご先祖様が大国主だったという元サンケイ新聞編集局次長の富當雄さん(故人)の話を元に、コメントを書き残しました。
    内容としては、
    ・被差別の中に出雲族はいるのかもしれないが、被差別でない民の中にも出雲族はいるだろう。大国主は、農耕を民に教えた実績があった為、農業とかもやっていただろうということ。
    ・徳川の賀茂(鴨・加茂)という名前も出雲系にある名前だし、“富”“向”“大”などが入る名前も出雲系であることが多いこと。
    以上の内容を書きました。
    そしたら、物部と名乗る方から、私の解釈は違うというお叱りのようなコメントを頂きました。
    ・被差別でない民の中にいる出雲族はニセモノであること。
    ・出雲族が、いかなる農業「とかも」を営んでいたのか?
    ・賀茂は出雲系ではないこと。
    以上のようなコメント返しがありました。
    富氏の話では、
    ・物部氏はウマシマジであり、物部氏は、ウマシマジが出雲神族のトミヤ姫を母とする親出雲族で、後に(崇神天皇前後)親天孫族に転向した。
    ・ホヒ家は、出雲王家を裏切って、攻撃者である物部を手引きし、出雲王家は物部に攻撃されて出雲王朝は終焉を迎えた。
    ・賀茂氏や三輪氏も、出雲神族の流れを汲む末裔の氏族である。
    と書かれていました。
    物部氏の真相が、いまいちよくわかりません。
    飛騨王朝で口伝は残されていないのでしょうか?

    • 山下住 より:

      三島様
      コメントありがとうございます。
      >飛騨王朝で口伝は残されていないのでしょうか?
       故山本健造氏が若いころに託されたと言う「飛騨の口碑」の内容は「明らかにされた神武以前」がすべてだと認識しています。
      その後、再調査で「なぜ、本来敬われなければならない天孫(飛騨から降りてきた人々)がエッタ(飛騨という意味)に落とされたのかを纏めた著書が「暴かれた古代史」です。
      原著を繰り返し繰り返し読んでみていただきたいと存じます。
      私も、著書紹介ブログとして何度も何度も読み返しました。
      三島様の疑問に正確に答えるほど私は、古代史を熟知していませんので山本健造先生・山本貴美子先生のご著書を読まれる事をお勧めします。
      すべて三島様の納得の行く答えが見つからないかもしれませんが、「飛騨の口碑」の大まかな内容を下記に書きます。

      1、海から最初に顔を出したのが、地学上「飛騨大陸」で生命が丹生の池(現在の乗鞍岳)で誕生し、人間まで進化する。日抱きの御霊鎮め(現在の精神統一)を何時からとなく行っていた精神文化があった。
      2、気候の変化や飛騨以外の土地を求めて、若い者が日本全国に広がった。飛騨を降りて行った人々は、飛騨をなつかしがり日抱きの御霊鎮めを行っていた。後に、土地を開いて下さった先祖を祀った。
      3、初代大淡上方様(約2500年前)は、日抱きの御霊鎮め中に近い将来、海を渡ってくる者が侵略してくることを見通した。今まで外れた事がない見通しに飛騨の人たちは大淡上方様の言われた事を守り続けた。
      その内容とは、本家と分家と言うシステムを作り国を作り一つに纏まって国を守ること。本家は上方様(後に天皇)と言って苗字が無い。分家には苗字を与えた。今上天皇の血筋を辿ると初代大淡上方様になる(万世一系)
      3、出雲を最初に開拓したのも飛騨から降りて行った方々であり、出雲は飛騨が統治していた。
      4、飛騨王朝と出雲は、いつまでも仲良く力を合わせていく事を約束し政略結婚を行っていた。
      5、ヒルメムチ(天照大神)の娘(タギリ姫)は、スサノオの息子である大国主命の妻になり出雲へ行く。
      5、タギリ姫に二人の子供ができるが、大国主命は今で言う女癖が悪くあちこちに子供を作っていたのでタギリ姫は子供を置いて飛騨に帰ってしまった。
      6、残された子供(長男)「加茂命」の加茂(かも)とは継子(ままこ)という古代語「カモ」とは不幸な悲しい運命の子という代名詞だった。
      7、大国主命は、新羅にも出かけ大勢の子供を作っていた事が、ず~っと後に判明する。
      8、大国主命が、スセリ姫を正妻にすると我儘を言ったのでスサノヲは怒る。それでも大国主命はいう事を聞かなかったので飛騨では、出雲の土地を返してもらう事とした。(国譲りは間違い、返してもらったが正しい)
      9、大国主命が新羅で産ませた子供が大きくなると、父親にあこがれて出雲に来る。しかし、大国主命は二度と女遊びが出来ないように、出雲と飛騨の関係を壊さないように幽閉されていた。
      10、憧れていた父親が幽閉されていることを新羅の子供たちは、残念に思い逆恨みし、さらに飛騨から地位を奪おうと策略する。
      11、出雲とは、新羅から出雲に来て天皇の地位(飛騨の地位)を狙い貶めた総称(古代の事であり現在の事ではありません)
      12、大国主命が生まれる前から飛騨の人たちは、大自然に感謝して農作物は豊富にあり営んでいた。

      古代史は、一回目のねじれと二回目のねじれによって、訳が分からなくなっています。
      どうぞ、原著を繰り返し繰り返し読んで観てください。
      神話やおとぎ話ではありませんから。

      纏まりのない説明になりましたが、今後とも「明らかにされた神武以前」「日本起源の謎を解く」「暴かれた古代史」をよろしくお願いいたします。
      「飛騨の口碑」は、記紀よりも正しいと私は考えています。