出雲に誕生したシラギ神崇拝教 | 古代被差別部落とは、その2

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山本 明著『地図と写真から見える!古事記・日本書紀』西東社より引用

日本人のルーツと日本起源は、飛騨の山奥に代々口碑として伝わっており、山本健造氏にたくされました。
そして、日本古代史がねじれた歴史は出雲の神事として残されていました。

今回は、オオクニヌシが新羅(シラギ)の女との間に生まれた子供とその子孫が出雲にきて新興宗教第一号、シラギ神崇拝教(しらぎがみすうはいきょう)を誕生させた事を山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』から紹介します。

天孫の子孫を古代被差別部落に落したのは、シラギ神崇拝教です。
シラギ神崇拝教は後に、出雲教と名称を変えますがどちらもオオクニヌシがシラギの女との間に生まれた子供とその子孫たちです。

当ブログは、下記と同意見であります
古代史はお伽話化されています。
二千年前の事がお伽話であろうはずがなく古代史を誤魔化して隠した者がいたのです。
ところが表向き歴史をかくし、そして神事の中に真実の歴史を残したのです。
それに気づき解読して本書に書きました。
私流に解読したものです。
本文中に断定しているような箇所がありましても総て推定です。
本書は過去の歴史であり現在のどの社も、宗教も、どのお方とも関係がありませんのでお断りをしておきます。
(山本健造原著/山本貴美子著 2010『暴かれた古代史』福来出版 まえがき~引用)

出雲大社が「逆転劇」を表明?古代史最初のねじれ

出雲大社由緒略記

出雲大社由緒略記 昭和53年9月1日 改訂27版発行

瀧音能之著 2014『出雲大社の謎』朝日出版から引用

P24、いったいなぜ、天津神の子孫が国津神を代表するオオクニヌシを祀ってきたのでしょうか?
普通に考えれば「ねじれた関係」にみえます。

P50、『古事記』『日本書紀』だけではわからない出雲大社の起源?

P56、壮大な規模を持つ杵築大社(出雲大社)が、いったいなぜ出雲国の中心から遠く離れた西部に創建されたのか?

P75、南向きの神殿になぜ西向きの神座があるのか?

出雲大社の祭神はオオクニヌシです。
大社の宮司は代々天照大神の息子のホヒの子孫です。
これは実におかしな事です。
伊勢神宮の天照大神は皇室の先祖ですから祭主は皇女(ひめみこ)です。
鈴鹿の椿大神社は猿田彦神(さるたひこのかみ)を祀りその直系の子孫が代々神主家なのです。
ご恩ある先祖を子孫がお祀りする、これが古神道なのです。

出雲大社はオオクニヌシ神を祀り、しかもオオクニヌシには大勢の子供がありながら、何故、ホヒが子々孫々神主であるのか誰も疑うことがなかったのです。

それもそのはずなのです。
実際は武力を背景に統治権を飛騨に「取り上げられた」のをオオクニヌシの方から「おかえし」したと穏やかに決着をつけたのに、由緒にはおかえしと書きながらあたかも「譲った」かのように変えて国を譲り受けた天照大神がオオクニヌシに感謝してホヒに祀らせたと主張しているのですから…

出雲の統治者であるホヒが祀らねばならない神は天照大神であり、ホヒの子孫が祀らねばならないのはホヒであるはずなのです。

勝って出雲を統治したホヒが、負けて幽閉されたオオクニヌシを神とあがめて祀るはずはないのです。

統治権をお返しさせられた弱者の出雲側が強者のホヒにこびるのが世の常です。
ホヒこそ祭神として祀られねばならないのです。

それが反対になっているのです。

歴史が逆転していることを出雲大社がハッキリと物語っているのです。
これを見て、オオクニヌシは女道楽がたたった幽閉の身から逆転して神になった、と筆者ははじめ思ったのです。

現在の出雲の社、日本中の多くの社の祭神にオオクニヌシが祀られているので、短絡的に幽閉から一足飛びに神に祀られたと最初は思ったのですが、実は出雲の社は昔は「曾(ソ)の宮」と呼ばれてオオクニヌシ以前に別の神が祀られていたのです。
そしてオオクニヌシは祭主にされていたのです。

二千年という長い長い歴史のなかで変遷(へんせん)があり、オオクニヌシ以前の祭神が途中で失脚して降ろされたのです。

その神が降ろされた後にオオクニヌシが祭主から祭神にされて今日にいたっているのです。

出雲大社起源の謎、幽閉所を社(やしろ)にリフォーム

幽閉所をリフォーム

御客座五神は飛騨から降りた人で、オオクニヌシを見張っていたと思われる。原著山本健造 / 山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版から引用

現在、出雲の社(やしろ)はいうにおよばず日本の多くの社で祭神として祀られているオオクニヌシがまさか幽閉されていたなどと誰が想像したでしょうか!

誰一人として思いもよらないことです。

しかしオオクニヌシは幽閉され、幽閉のオオクニヌシを見張りながら料理を受け持っていたのがクシヤタマであったことは飛騨にしっかりと口碑を残しているのです。

普通の神社は中央に玄関がありますが出雲大社の玄関は中央にはないのです。
これは、幽閉所には玄関は必要なく、見張り役人たちの通用口だけが必要で建物の右よりにあるのです。

最初から社として造られていないのですから中央に玄関がないのです。

普通の社では祭神は参拝者と正面から向き合っているのですが出雲大社では祭神を横から参拝するのです。

これも通用口から一番遠い部屋にオオクニヌシの幽閉室があり、社として造ったのではないからです。

参拝者は尊い神と信じて拝むのに祭神はあさっての方を向いているのです。
本殿の床下が大変高くなっています。
これは逃げることができないように床を高く造ってあるのです。
上図は出雲大社の平面図です。
天ツ神々の五神がお客座として鎮座ましましているのです。
飛騨の神々です。
お祀りされているのではないのです。

一体この五神のお客神とは何なのか解らないのです。
幽閉所がそのままの姿で残されているのです。
(御客座五神は飛騨から降りた人で、オオクニヌシを見張っていたと思われる)

このように普通の神社と違うのは幽閉所として造った高殿をそのまま社にしたためです。

オオクニヌシの子孫が「ホヒよ、大和朝廷よ、出雲の社はお前達がオオクニヌシを幽閉した建物である
(その建物に、昔、オオクニヌシを祭主にしてイソタケルを祀っていたが)今はオオクニヌシを神として祀って監督していたホヒ(とその子孫)に仕えさせている、
良く見よ、
幽閉所をそのまま留めて幽閉の恥を忘れず、この恨みこの屈辱は永遠に忘れぬぞ」
と主張しているかのようです。

オオクニヌシの子孫は幽閉所を社にしてそのまま残したのです。

さらに大きなしめ縄を古神道の社とは向きや巻き方を反対にして逆転を強調し、俺たちは日本の古神道とは違うのだぞ!と主張しているのです。

筆者は昔のことを言っているので現在の出雲大社とは関係ありません。

原著/山本健造・山本貴美子著「裏古事記ねじれねじれて二千年」福来出版から引用

ホヒを殺し「曾(ソ)の宮=幽閉所」としてイソタケルを最初祀った

被差別部落に落とした大陸人

原著山本健造 / 山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版から引用

ホヒを殺して煮て食べた者は一体誰なのでしょうか?
ホヒを食べた者は外国から来た者にちがいありません。

血筋が絶対条件であったその頃、出雲政権を乗っ取り担当できる者はオオクニヌシの血を引いた者であるということです。

政権を奪い取った者がオオクニヌシの子供なら喝采(かっさい)こそすれ誰も文句を言う者はいないはずです。
それは一体どういう人物でしょうか。

オオクニヌシを父に、母が外国人なら条件にかないます。

筆者はホヒを殺して煮て食べた連中の首謀者はオオクニヌシが新羅の女に生ませた子供であると思います。

母親が新羅人で、子供は新羅で育ち食人の習慣をもっていたのです。
オオクニヌシの子供ですから、出雲政権担当の資格を持っているのです。

『日本書紀』に「スサノオはその子イソタケルをひきいて、新羅の国に降りられて、曽戸茂梨(ソシモリ=ソホル即ち都の意か)のところにおいでになった」とあります。

これは実際はオオクニヌシであるのを、スサノオとはぐらかしているのです。
はぐらかしながらイソタケルは新羅の曽戸茂梨(ソシモリ)の人間であると言っているのです。

スサノオは飛騨で生まれ、若気のいたりで出奔(しゅっぽん)しましたが、父親の言いつけどおり出雲で海辺を守っていたのです。

飛騨に忠誠を尽くし、姉の天照大神と日本の後のことを考えていますから、イソタケルの父親ではありません。

『記紀』はオオクニヌシが新羅に行っていたことを隠しているのです。

そしてイソタケルはオオクニヌシが新羅の女に生ませた子供であることを隠しているのです。なぜ父親をスサノオとすり替える必要があったのかです。

憧れのシラギへ行ったオオクニヌシは、シラギで子を大勢作る。後に、その子が出雲に来る

オオクニヌシは、大陸から来た人達の高い物質文明を遠くから眺めて憧れながら育ったと思われます。

タギリ姫が飛騨に帰った後、飛騨から使者が送られますが、11年もの間会うことができなかったのです。

そのはずです、オオクニヌシは新羅へ行っていたのです。

オオクニヌシは父スサノオや兄弟たちと一度父の故郷であり総本家の飛騨を訪ねています。
そしてタギリ姫を妻にして共に出雲に帰ったのですが、父の実家の飛騨は出雲と比べて素朴で、スメラ命の生活が質素なのでバカにしていたのです。

飛騨の偉大な精神文化をまったく知ることなく…です。
そして後に、バカにしていた飛騨の大軍が稲佐の浜に現れた時は腰を抜かさんばかりに驚いたにちがいないのです。

ましてや国をお返しせねばならなくなるなどとは夢にも思わなかったのです。
父親のスサノオが厳しく言ってきかせて注意したはずなのに…

飛騨でもオオクニヌシがまさか大陸の新羅の女に子供を産ませているなどとは夢にも思ってもみないことであったにちがいないのです。

大国主命とシラギの子供

原著山本健造 / 山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版から引用

『古事記』に、オオクニヌシが出雲の岬にいたときに遥か海上より寄って来る神があり、この神はかが芋の殻を割って造った舟に乗り、丸はぎに剥いだ火取虫の皮で作った物を着ておりました。

「あなたはどなたですか?」と尋ねても、何ら答えがないので、お供の者に聞いても誰も知っている者がいませんでした。

そこでクエヒコを呼んできて、クエヒコが尋ねると「神産巣日神(カミムスビノカミ)の子供で少彦名(スクナヒコナ)です
と答えたので神産巣日神にきくと神産巣日神は少彦名を見て「まさしく我が子にちがいない、オオクニヌシと兄弟になってこの国を作りかためよ」と書かれています。

日本のものとは違う衣服を着て違う舟で海の向こうから少年が来たのです。

言葉も通じなく、クエヒコを呼んできてはじめて言葉が通じたのです。
クエヒコは通訳をしたのです。
これは少彦名(スクナヒコナ)が外国人であることを暗に、しかも強調しているのです。

筆者はこのクエヒコこそ自分の故郷の新羅へオオクニヌシを案内し後には少彦名たちの通訳をした知恵袋であったと思います。

『古事記』は少彦名が神産巣日神の子と誤魔化しています。

神産巣日神は天ツ神であり、飛騨の神であって、出雲にいるわけがなく少彦名の父であるはずがないのです。

まさしく我が子にちがいない」とはオオクニヌシのせりふです。
オオクニヌシが新羅へ行ったときにあちらの女に生ませた子供・まさしく我が子、オオクニヌシの子供であったのです。

その子供が大胆にもホヒを殺して出雲政権を乗っ取るという大事件を起こしたのです。

日本にはオオクニヌシの子供が大勢いながら…です。

少年・少彦名は以来イソタケル・尊敬すべき英雄とほめ讃えられ敬われたのです。

イソとは新羅の曽戸茂梨に居(イ)たソの人という意味です。
ところがそのイソタケルが大事件後まもなく出雲で死んでしまったのです。

日本最初の新興宗教第一号「シラギ神崇拝教」出雲で誕生

シラギ神崇拝教

原著山本健造 / 山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版から引用

少彦名(スクナヒコナ=イソタケル)のあまりにも若過ぎる死を大勢の兄弟達や出雲の人達が嘆き悲しみ残念がりました。

イソタケルへの尊敬と哀惜とが入り混じって、死後に英雄イソタケルを神に祀りあげたのでした。

そして兄弟達はとんでもないことを考えついたのです。
幽閉の身のオオクニヌシはもう亡く、ガランとした幽閉所を社にしたのです。

そうです。
「曾の宮(幽閉所)」です。

オオクニヌシは幽閉されていたのではなく、「曾の宮」で英雄イソタケルを祀っていたことにしたのです。
そしてオオクニヌシ亡き後、ホヒが祀っていたことにしたのです。
ホヒ亡き後はホヒの子孫が祀りつづけたのです。

ここに日本の古代において初の新興宗教シラギ神崇拝教が誕生したのです。

そして英雄イソタケルのあまりにも若過ぎた死の悲しみがこの後に説明する大陸文明礼賛のあおりに便乗して入り交じって熱狂となって広がり、思いがけずたちまち英雄イソタケル崇拝になって広がったのです。

オオクニヌシは生前あちらこちらの豪族の娘を妻にしておりました。
そして大勢の娘達を泣かせ、その親達を怒らせました。
醜男の所以です。

ところが多くの女に産ませた一八一人もの子供達は皆兄弟なのです。
イソタケルを神に祭りあげるとイソタケル同情崇拝の熱狂があっというまに出雲全土に広がっていき、出雲のあちこちの国に散らばっているオオクニヌシの子供たちが英雄イソタケル神を中心に一致団結して固まったのです。

オオクニヌシの意宇国はほんの小さな国だったのですが、思いがけず出雲の一小国の意宇国があっというまに出雲九ヶ国を一つの国にまとめてしまったのです。

イソタケル崇拝が功を奏し、あちこちの豪族の娘に子供を産ませた醜男の好色が功を奏したのです。
それに味をしめた少彦名の兄弟達はこの手、
つまりイソタケル信仰(と、色仕掛け)を使って飛騨王朝、大和朝廷を攻めることを考えたのです。

オオクニヌシの子供達の恨みは飛騨王朝、後の大和朝廷なのです。

仇を討ちたい、何とか恨を晴らしたいのです。

しかし相手は大きすぎて太刀打ちできる相手ではないことを自分達が一番よく知っているのです。

しかし、出雲がイソタケル崇拝でかたまったこの手を使えば夢ではないことに気がついたのです。

シラギの神イソタケルを天照大神よりも誰よりも日本で一番偉い神に祀り上げて皆に平伏させれば、天照大神の子孫達や天皇までをもシラギ神を拝ませればその時は勝つのです。

飛騨王朝の神々を倒してさらに日本中の神社をシラギ神にひれ伏させれば仇が取れるのです

そうなれば大和朝廷を押さえ、さらに乗っ取ることができるのです。

まずシラギ神を担いで天孫の天ツ神々、まずは天照大神を倒して仇を取ろうと考えたのです。

出雲で大陸文明礼賛大ブーム起きる

出雲でシラギ教がブーム

原著山本健造 / 山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版から引用

外国について何ら予備知識もない日本に、日本人が始まって以来はじめて外国の文明が入ってきたのです、と言ってもけっして大げさではありません。

オオクニヌシが生きた頃、出雲に住んだ人々が、高度な異文明にはじめて触れて、その素晴らしさに驚嘆し、あこがれ、崇拝し、どのくらい狂喜して心酔していったかは、我々には想像ができないくらいです。

出雲の人々は大陸文明を礼賛し、出雲に流れ着く普通の朝鮮の人達が眩しく輝いて見え、出雲で大陸文明礼賛の大ブームが巻き起こったと思えます。

その礼賛第一人者が出雲の統治者・オオクニヌシであったのです。
さて話しを戻しますと、
オオクニヌシ亡き後ますます大勢の新羅人が出雲に渡来してきたのです。

そして出雲先住民の日本の人々は新羅から来る人々と競って結婚し、文明を取り入れて「新羅かぶれ」をしていったと思われます。

今でも出雲唐人(いずもとうじん=外来の人)という言葉が残っているのです。

出雲では新羅からもたらされる大陸文明とそれに便乗したシラギ神崇拝教が一つになって、大陸文明礼賛崇拝の大旋風が巻き起こりました。

大旋風のなか、意宇(おう)の国はイソタケル神を担いで出雲をひとつにまとめた後、大陸文明とシラギ神をドッキングさせて大和を目指したのです。

(原著山本健造 / 山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版から引用)

まとめ

正義を守るには破邪顕正の剣が必要
以上が国おかえしとお返しした統治権の乗っ取りの顛末と、出雲において日本ではじめて起きた新興宗教シラギ神崇拝教の誕生の歴史でした。

  • 飛騨王朝は、出雲は大事な親戚であるので寛大な処置をとられたのです。
    ホヒは従兄弟である幽閉のオオクニヌシに対して、前統治者としての礼をつくし、ホヒの部下で料理方のクシヤタマはオオクニヌシに真心を尽くしたのです。
  • それが飛騨の心です。
    クシヤタマが神に祀られていることからオオクニヌシの子供たちは、直接世話をしてくれたクシヤタマに感謝したと思われます。
  • しかし、飛騨の徳治政策も、温情も、日本人には想像すらつかない外来の野蛮で残虐な心の持ち主達にかえってつけ込まれてしまったのです。
  • 出雲におけるホヒの敗北は、飛騨王朝が、ホヒを守るための軍隊を出雲に残さなかったからです。
    あの当時、筑紫で外国勢が暴れ、広い筑紫平定に一人でも多くの兵隊が必要であり、外国勢は親戚筋の出雲より恐ろしいので、ホヒを護る軍隊を出雲に残すことができず、最小限度の人しか残すことができずしかたがなかったのです。
  • 出雲で飛騨王朝のホヒが負けて、さらにその後、百数十年ほど経った頃でしょうか、大和でも出雲で起きたシラギ神崇拝教に負けることになるのです。
  • そして飛騨から降りた天孫達に二千年の後々まで悲劇被差別部落)が引き起こされてくることになるのです。
    残虐非道な野蛮な相手に徳は通用しないのです。
    徳を守るには非武装ではなく、
    破邪顕正の剣が絶対に必要であることをしっかりと知らなければなりません。

(原著山本健造 / 山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版から引用)

コメント

  1. あわぬこ より:

    山下住 様
    本ホームページを見て、山本先生の「明らかにされた神武以前」等の書籍を買うことができました。たいへん、感謝しております。
    山本先生自体は、偽書としております「おお・たたねこ」が編者のホツマツタヱで、色々、調べていて気になったことが1つあります。もし、わかるようでしたらご教授いただければ、ありがたいです。
    「あきらかにされた神武以前」の「5 意富加羅国の王子襲来の予言」では、淡上方様が「数百年近い将来、日本の北の海岸に異民族が大挙して押し寄せて、日本を植民地化しようとする大事件が起きるし、その次には九州方面に危ないことが起こると申された。」とあります。九州は、神武東征で回避した話ですが、若狭湾のほうは、神武東征以前の話だと思えます。ところが、新羅の王子の来日の話は、日本書紀・ホツマでは垂仁天皇の時代で、古事記では応神天皇の時代の話で、神武天皇の時代とは大きく時代がズレています。
    この辺、何かご存知でしたら、情報いただけますと幸いです。

    • 山下住 より:

      あわぬこ 様

      コメントありがとうございます。
      ・「九州は、神武東征で回避した話ですが」について

      前置きとして、九州は、ヒルメムチ命(天照大神)の夢見(日抱御魂鎮)によって筑紫(九州)に外国人が大勢上がって来る事がありありと見えた。
      それで、宮村の安川原(現在の岐阜県大野郡宮村役場の裏)で幹部会議を開き次の事を決めた。
      1つ、
      外国の侵略を防ぎ、皆が幸せに暮らせるように、皆から敬われている皇統命を中心に日本を一つにまとめる。
      2つ、
      飛騨は山奥すぎ、冬は雪が多くて国をまとめていくには身動きがとれないのでヤマノフモト(後に大和=畿内)に都を移す。
      3つ、
      ヒルメムチ命(天照大神)の孫の饒速日命(にぎはやひのみこと)は近畿を開拓して、弟の邇邇芸命(ににぎのみこと)の帰還を待つ。
      邇邇芸命を総大将として、早く筑紫(九州)を平定する。
      平定後は、飛騨まで帰らずヤマノフモト(大和)に入って都を開き治めよ。(想定外、筑紫平定に30年余りも経って邇邇芸命の孫に当たるサヌの命(神武天皇)が大和へ帰還した)
      日本は、初代大淡上方様、第15代淡上方様、第35代天照大御神様の日抱御魂鎮による時間的透視(夢見)によって国防の備えをしたおかげで現在があります。

      回答として、九州は天孫降臨のお話で、本来弟の邇邇芸命(ににぎのみこと)が大和に帰還して都を開く予定が神武天皇の代まで筑紫平定が長引いたという内容です。

      余談として
      天孫とは、【高天原(飛騨)から降りて来た人々で、日本全体の事を案じ、身内の者を危険な場所に遣わし、自ら進んで国難に当たったり、
      日抱御魂鎮から得た神通力で病気を治したりしたので尊敬され、天孫子(あびこ)と呼ばれた。
      飛騨より国造りのために下山した人を漢字が伝来してからは天孫(てんそん)とよびました。
      (山本健造著『日本起源の謎を解く』福来出版P288から参照)】

      天孫降臨とは、【天孫が地方に降臨して地方政権を樹立して、そこを高天原と称したと思われるところが全国に多いようです。
      その中の大和(やまと=奈良)にゆき政権を樹立した直系の血統が国をまとめる中心となりましたので「天孫降臨」といえば邇邇芸命(ににぎのみこと)の御降下(ごこうか)だけに使われるようですが、大昔は外の地でも使われたようです。
      琵琶湖の「山本山」や「鈴鹿」には天孫降臨の伝説が今尚伝えられています。
      (山本健造著『日本起源の謎を解く』福来出版P288から引用)

      ・「若狭湾のほう」について
      回答:若狭湾は、第15代淡上方様の大決断から始まるお話。
      淡上方様は、飛騨中治めるには雪がない宮村の方が都合が良いと都を丹生川の奥から宮村へ移す決心をされた。
      さらに初代大淡上方様の時に、分家した山本一族、山下一族が飛騨の要所を守っていたが飛騨が固まって来たので山下、山本の一部を神通川(かみとおる川)と庄川の河口に、山本高山土公命(高山市八幡神社は昔高山土公の宮と云いそこに住んでいた)に、現在の鈴鹿(三重県)へ、山下住命(高山市日枝神社は昔大山咋の宮と云いそこに住んでいた)には、瀬戸内海へ行くように、そして、早く立派な舟を造れと命じました。
      それぞれ家来二十名程とその家族を連れて降りました。
      さらに鈴鹿からは一族が分れて、現在の琵琶湖の山本山の所と若狭湾に、早く行くように命じられました。
       それまでは飛騨を治める御方を上方様と申し上げてきましたが、宮村に都を移した淡上方様は後継者の孫に皇統命(スメラミコト)の尊称を授け、ここに位山命(クライヤマノミコト)が初代皇統命となられたのです。
      (日本のルーツ飛騨p12~p15引用)

      ・古事記・日本書紀について
      回答:古事記・日本書紀は、意図的に大事な所をぼかされたり、本当の事を書かなかったりおとぎ話化されていると言う事を「暴かれた古代史 二千年の涙」に書かれていますからご参考に読んでみてください。
      古事記、日本書紀と年代がずれるのは当たり前。

      最後に、
      山本健造先生は、飛騨の口碑が正しいか、古事記、日本書紀が正しいかを数十年掛けて全国を歩き調査して纏めたのが、「神武以前」です。私を山本健造先生の学説を支持するものです。
      ホツマツタヱに関しては、「日本の起源の謎を解く」p181~を参考にしてください。
      それでは、参考になれば幸いです。

      • あわぬこ より:

        山下住 様
        丁寧な説明、ありがとうございます。
        淡上方様の九州の件、誤解しました。九州のほうは、三韓征伐の時の九州熊襲の話だったのですね。あらためて、すごい方、尊い方たちだったと感じ入りました。
        この話、広く伝わると良いですね。Youtube動画にすると良い気がいたします。

  2. Zombie より:

    倭国と新羅の戦争は同族間での内戦と言えます。
    新羅はスサノオを信仰していたので
    倭国がスサノオに新羅をディするよう『日本書紀』を記述したのでしょう。

    • 山下住 より:

      Zombie 様

      コメントありがとうございます。
      古代史には、それぞれ研究する角度によって行く通りの解釈がありますので貴殿の推理・推論もありかと思います。
      私は、『飛騨の口碑』を託された山本健造氏、山本貴美子氏が足かけ20年~30年掛けて全国を調査し、なぜ本来土地を開いた者が祀られず、上方様(後の天皇)を支えお守りしてきた尊い方々がエッタと呼ばれ被差別部落に落とされなければならなかったのかと言う問題を解かなければ歴史が解らないと思っています。
      その謎を解いたのが、「暴かれた古代史」です。
      この本の中には、『歴史に二つのねじれ』があると書かれています。
      長年の全国調査から導きだした推理だと私は考えています。
      その「二つのねじれ」とは何かを理解すれば貴殿の推理・推論も飛躍していくと思いますので是非、原著を繰り返し読んで「二つのねじれ」がなぜ起きたのかを読んで頂きたいと存じます。
      また、余計な事かもしれませんが、「明らかにされた神武以前」を読むと、日本人(大和民族)の深層心理や気質を感じ取れると思います。
      大和民族は、どこの民族とも違う気質を備えています。
      世界が見習うべき気質を備えている事が解ります。
      『日本書紀』は大和民族の気質が現れていません。
      具体的に回答すればよいのだろうけども、原著『明らかにされた神武以前』『日本起源の謎を解く』『暴かれた古代史』を読んで頂いた方が正確なので、原著を読まれることをお勧めいたします。
      繰り返し繰り返し読んで頂きたいと存じます。
      自分の中に流れている大和民族の血が『飛騨の口碑』は正しいと言ってくるのです。
      以上です。

  3. Zombie より:

    日韓の史料を見ると新羅は倭人系の国家であることが分かります。

    『三国史記』によると新羅の祖の赫居世居西干は異国人
    『新撰姓氏録』によると神武天皇の兄である稻飯命が新羅の祖(朴氏の始祖で初代王の赫居世居西干)
    『三国史記』によると新羅の建国時に諸王に仕えた重臣である瓠公は倭人
    『三国遺事』によると「朴」は辰韓の語で瓠を意味する(朴氏の始祖である赫居世居西干と瓠公は同族とする説がある)
    『古事記』『日本書紀』によると赫居世居西干の次男アメノヒボコが日本の但馬国に移住
    『三国史記』によると昔氏の始祖で第4代王の脱解尼師今は倭人(多婆那国の出身。多婆那国の場所は日本の但馬あたり)
    『三国史記』によると新羅三王家の一つ金氏の始祖である金閼智を発掘したのは瓠公(おそらく金氏も倭人)

    • 山下住 より:

      Zombie 様

      コメントありがとうございます。
      貴殿の研究に敬服いたします。
      貴殿は、倭人系=大和民族(飛騨民族)と考えているのでしょうか?
      私は、『三国史記』『新撰姓氏録』『三国遺事』を読んでいないので貴殿に回答できません。
      文面から感じた事は、飛騨から降りて日本全国に広がった飛騨の人々は山の麓(フモト)へ降りて行ったので山の麓がつづまって後に大和と当て字して大和民族となりました。
      倭人と言うのは、他国からの視点であり日本(大和民族)の史記とすこしズレがあってもおかしくないので、そのまま大和民族に当てはめるのはいかがなものかと存じます。
      古事記、日本書紀は都合の良いように神話化されています。
      ワザと本当の歴史が解らないようにボカされていると推測してまとめたのが「暴かれた古代史」です。
      なので、貴殿の研究に山本健造著「明らかにされた神武以前」「日本起源の謎を解く」「暴かれた古代史」を繰り返し読んで行くと貴殿の研究が飛躍すると思います。
      私にできる回答は、このぐらいです。
      山本健造先生と一緒に『飛騨の口碑』は『記紀』より正しいかどうかを全国調査した山本貴美子氏が月に一度セミナーを開いていますので、参加されて直接疑問を聞いてみてください。
      セミナーに関しては、「六次元会」のホームページを参照してください。

      回答にならず申し訳ありませんが、以上です。

  4. 美優雨 より:

    初めまして、美優雨と申します。
    最近になって飛騨王朝という存在があったかもと知りました。全然世に出てこなかったですよね。
    母方の祖母古川生まれ、祖父神岡生まれ、母は、高山出身なんでもっと知りたいと思い偶然このサイトにたどり着きました。
    山奥の地域に京文化も根強いていて、平家の落武者伝説もあるあの地方は、不思議だなと思っていました。

    • 山下住 より:

      美優雨さんへ
      コメントありがとうございます。
      私も、山本健造氏の著書を読むまではしりませんでした。
      また、真実かどうかという問題もありますが私は、「飛騨の口碑」は正しいと考えている者です。
      そして、「飛騨の口碑」からなぜ、古事記や日本書紀は神話化されおとぎ話化されているのか?
      なぜ、出雲のことが多く書かれ、高天原とは「どこか」と書かれていないのか?
      なぜ、天照大神は伊勢に祀られているのか?
      なぜ、天皇陵は被差別部落のなかにあるのか?
      いつから、本家と分家という仕組みが日本にでき、なぜできたのか?
      本来、古事記や日本書紀に書かれていなければならない事が書かれていないのはなぜか?
      これらを、矛盾なく解いたのが「明らかにされた神武以前」「暴かれた古代史」だと思ってブログで紹介させていただきました。

      美優雨さんの先祖は、飛騨なんだな~と思いました。
      是非、「天孫宮」にお詣りされるとよいと思います。
      先祖の方々が喜ばれるはずです。
      美優雨さんだけでなく、日本人の多くは先祖をたどると飛騨民族(大和民族)に行きつくと思います。

      山本健造著「日本起源の謎を解く」P184には、次のように書かれています。
      『当時の日本は六十数カ国に分かれていて、その国々に文化が咲きかけていたのです。
      ですから高天原は六十数カ所もあったのです。
      問題はどの高天原が皇室の先祖につながるかです。』

      皇室につながる高天原は、飛騨高天原であると考えています。
      飛騨王朝を逆恨みした者が、飛騨王朝(飛騨高天原)を歴史から消し、各地の土地を開拓し祀られた飛騨天孫族をも
      すり替えたため、飛騨王朝という存在が薄れたと考えています。

      現在は、「飛騨の口碑」を正しいと考えている人が増えております。
      どうか、美優雨さんにも「飛騨の口碑」を拡散して頂きたいと願っています。

      それでは、なお一層のご健勝をお祈り申しあげます