大和をエッタ(穢多)に落としたシラギ神崇拝教| 古代被差別部落とは、その3

ニギハヤヒが降りた御諸山

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

日本人のルーツと日本起源が書かれた古事記・日本書紀は、飛騨王朝を逆恨みした者によって編纂されたために、大和朝廷の前身が飛騨であるという歴史が消されました。

今回は、出雲で誕生したシラギ神崇拝教が大和(ヤマト=飛騨から見て”山のふもと”がつづまって”やまと”)を、どんな手口でエッタ(穢多)に落とし被差別部落にしたのかを山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版から紹介いたします。

当ブログは、下記と同意見であります
古代史はお伽話化されています。
二千年前の事がお伽話であろうはずがなく古代史を誤魔化して隠した者がいたのです。
ところが表向き歴史をかくし、そして神事の中に真実の歴史を残したのです。
それに気づき解読して本書に書きました。
私流に解読したものです。
本文中に断定しているような箇所がありましても総て推定です。
本書は過去の歴史であり現在のどの社も、宗教も、どのお方とも関係がありませんのでお断りをしておきます。
(山本健造原著/山本貴美子著 2010『暴かれた古代史』福来出版 まえがき~引用)

飛騨王朝最後のスメラ命のサヌ大和朝廷を開く

大和が被差別部落に

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

天照大神の命により大和に都を移すために天照大神の孫たちが大勢の者を引き連れて近畿一帯に降りて開拓されました。

その孫の神々は後に消されてしまったのですが、茨木(いばらき)、河内(かわち)など地名となってその名残を今にとどめています。

孫の一人のニギハヤヒは大和の御諸山(みもろやま)に居を構えて、築紫平定に骨折っているスメラ命の弟ニニギの帰りを待ちながら都を開くための準備に骨折られたのです。

ニニギの孫のサヌが大和へ帰ったときにはニギハヤヒはすでに亡く、息子のウマシマデが後を継ぎて守っていました。

飛騨の位山に歴代スメラ命の御陵(ごりょう)があります。
その御陵に神武天皇が御幼名(サヌと言う)で祀られているのです。

今ではサヌが、神武天皇の御幼名であることすら忘れられてしまって「サルではないぞ、サヌやぞ」といましめて代々言い伝えて、今日まで守られ続けてきたのです。

御幼名で祀るということは父祖の地であるからです。
神武天皇の先祖の地は飛騨なのです。
これは、
大和朝廷の前身が飛騨であるという確かな証拠です。

位山にサヌを祀る

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

系図

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

「大和一の宮」に祀られているのは天孫ニギハヤヒではなく外人?

ニギハヤヒ命

ニギハヤヒの画像(秋田・唐松神社蔵)

大和はかつての日本の中心地でした。
その大和の一の宮の祭神は本来大和に都を拓くために骨折られた天照大神の孫のニギハヤヒが祀られているはずなのです。
ところがニギハヤヒは祀られていないのです。

そして…『古事記』に
「海の上一面を照らしてきた神が我を大和の青垣(あおがき)、東山(ひがしやま)に祀れ、といわれたから、オオクニヌシが御諸山(みもろやま)に祀った」と書かれています。
御諸山の祭神は海の向こうから来た、とは外国から来たことを暗にいっているのです。

三輪山の最初の祭神

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

クエヒコも三輪山(みわやま)に祀られている

クエヒコとは出雲の海岸に少彦名(スクナヒコナ)が来たときに通訳をしたあのクエヒコです。

おそらくクエヒコは子供の頃に日本へ来て日本語を憶えたのです。
当然母国語の新羅語は堪能(たんのう)であり、最初の通訳者で智恵の神様と敬われたのです。

日本へ来た少彦名達の通訳をし、日本のことを何もしらない少彦名たちが相談に乗って貰った大事な人であったと思われます。

御諸山(みもろやま)に外国の神が祀られたときにクエヒコも祀られたと思われます。
御諸山の「みもろ」は「みむろ」がなまり「むろ」とは皇室の室(むろ)、天皇がおわします所のことで、天照大神の孫のニギハヤヒが飛騨から降りて住んだ所が御諸(みもろ)であり、その山を御諸山と呼び、大和の御諸山はニギハヤヒの山なのです。

『出雲風土記』には御室山・スサノオの御室を造らしめ給いて宿らせる所なり。
かれ御室という、とあり出雲の御室山はスサノオの住んだ山です。

ねじれが古代史をわからなくさせた

ニギハヤヒの御諸山の社(やしろ)にかつては外国の神が祀られ、現在はオオクニヌシが祀られています。

元来祀られるはずのない人達、ましてや外国人が祀られていたのです。
今、現に出雲の神が祀られているのですから長い歴史のなかで何かが起きてニギハヤヒの山が乗っ取られたのです。

大和朝廷が取って代わられたのなら、御諸山も当然取られるのですが、大和朝廷は続いて御諸山の社が取られているというねじれ現象が、日本の古代史を解らなくしているのです。

『古事記』には外国の神と暗示しているだけでいったい誰なのか書かれていません。
御諸山が一体、何時、どうやって乗っ取られたのでしょうか。

シラギ神崇拝教!大和へ進出してくる

シラギ神崇拝教が大和へ

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

ニギハヤヒの息子が待つ大和へ筑紫平定を無事に終えたニニギの孫の神武天皇が大勢の者を引き連れて帰って来ました。

そして大和に都が開かれると、飛騨からも益々大勢の若者達が降りて来るし、大和は大勢の人が集まりだんだんと都らしくなっていました。
その大和へ出雲は、大陸文明にシラギ神崇拝教を付けてもたらしたのです。

出雲は大和朝廷と天照大神の打倒を内に隠して、大陸文明にシラギ神をドッキングさせてシラギ神崇拝教の布教に走り出したのです。

オオクニヌシの一八一人もの子供とその孫、曾孫のものすごい数の連中が一丸となって大和を中心に近畿を目指したのです。

出雲で大陸文明の大旋風が起きたように、大和でも出雲に遅れて大陸文明の大旋風が起きたにちがいないのです。

その大陸文明大ショックの中をシラギ神崇拝教はそっとしのびよりどんどんと布教して人々の心にしらぬまに食い込んでいったのです。
そして時代が流れました。

飛騨(天孫)への逆恨み、子々孫々まで続くしつこさ「シラギ神崇拝教」

シラギ教の手口

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

十代崇神天皇(すじんてんのう)の御世のことです。
疫病が流行り半数以上の民が死に流浪し大変に乱れました。
天皇はたいそうご心配なされて占いをされたり、神に祈ったりして迷われました。
(日本書紀)

そこへシラギ神崇拝教がつけこんだのです。
そして策略をかけたのです。

その時までは、御先祖の天照大神の「八咫鏡(やたのかがみ)」と、ニギハヤヒ(大国玉神 大国魂神 大物主神ともいう)は宮中の中に祀ってありました。

シラギ神崇拝教の目的は大和朝廷を倒すことにあるのです。
武力で倒す力がない出雲は宗教で攻めたのです。
そして天皇の位を狙っていたのです。
「八咫鏡」は皇位の印でありこの鏡を持っている人が天皇なのです。
この「八咫鏡」を狙ったのです。

「八咫鏡」が宮中にあるとシラギ神崇拝教は手が出せないのです。
時期の来るのをじっと待っていたのです。
そのシラギ神崇拝教が動いたのです。
今こそ天皇から「八咫鏡」を離す
今こそ その時だ!
占師が「疫病が収まらないのは宮中に神を祀るからです。
神を宮中の外に祀りなさい」と天皇に申し上げました。

疫病のおさまる事を願われる天皇は、シラギ神崇拝教の策略であるとは夢想だにされず、民の幸せをひたすら願って藁(わら)をもすがる思いで占師の言うまま、天照大神の「八咫鏡」とニギハヤヒの二神を外にお祀りなされたのです。

日本書紀』には
「天照大神はトヨスキイリ姫に託して笠縫村(かさぬいむら)に祀った。
日本大国魂神(ニギハヤヒ)はヌナキイリ姫に預けて祀られた。
ところがヌナキイリ姫は髪が落ち体が瘠せてお祀りすることができなかった」とあります。
しかし何故姫が衰弱したのか理由が書いてないのです。
一体何があったのでしょうか、それが問題です。

ニギハヤヒの御霊代(みたましろ)を騙し取った事を日本書紀には書かなかった

盗まれたニギハヤヒの御霊代

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

日本書紀』には天照大神の御霊代は「八咫鏡(やたのかがみ)」とあり今なお伊勢神宮に祀られています。
ところがニギハヤヒの御霊代については全く触れていないのです。

天照大神に御鏡(おかがみ)があるようにニギハヤヒにもあったはずなのです。
あったにちがいないのです。
さらに天照大神は笠縫村に祀ったとありますが、日本大国魂神(ニギハヤヒ)をどこに移したのかその場所が書かれていません。

日本大国魂神(やまとおおくにたまのかみ=ニギハヤヒ)を祀ったヌナキイリ姫の髪がぬけ体が痩せるほどとは重大事件があったはずなのです。
それが書かれていないということが変なのです。
書かれていないことが問題なのです。

日本大国魂神(ニギハヤヒ)の社(やしろ)の場所をいわず、ただ姫の衰弱のみが書かれているのです。

ニギハヤヒの御霊代が盗まれる

崇神天皇はかつてニギハヤヒが住んでおられた御諸山に社(やしろ)を建てて、ニギハヤヒの御霊代、それは生前愛用されていた勾玉(まがたま)の首飾りと剣であると思われますが、その御霊代をヌナキイリ姫に祀らせられたのです。

ところがある朝、ニギハヤヒの御霊代が消えてなくなっていたのです。
何者かに盗まれたのです。
驚いたのなんの姫はショックで声も出ませんでした。
御霊代を取られ、取り返しがつかなく、姫は悩んで髪が抜け落ちるほど衰弱してしまったのです。

『日本書紀』は出雲にとって都合の悪いことは触れていないのです。
『日本書紀』を読んでもニギハヤヒの御霊代があったはずなどと誰が疑問に思うでしょうか。誰も疑問にすら思わないで読みます。
しかし、よく考えればあったはずなのです。

天皇のお側からニギハヤヒの御霊代を離すように仕掛けて、そして盗んだのです。
計画的であったのです。
悪い奴
恐ろしい奴
恐ろしく悪賢い奴
そは何者ぞ

この後にシラギ神崇拝教が御諸山を乗っ取ることになるのですがこのときはまだ誰の仕業かわからなかったのです。
してやられたのです。
天皇の側近にまで牙を食い込ませていたのです。
迷信宗教が忠誠なる側近の心までも蝕んでいたのです。
げに恐ろしきかな
それは迷信宗教
天皇もニギハヤヒの御霊代が盗まれたなどとは大恥なので黙ってしまわれたのです。
このときにニギハヤヒの御霊代が取られ、後にはニギハヤヒの尊称の日本大国魂神や大物主神の名までオオクニヌシに奪われ、結果ニギハヤヒは抹殺されてしまったのです。

御諸山を乗っ取ったシラギ神崇拝教の手口とは、大ウソと大芝居だった

乗っ取られた御諸山

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

ニギハヤヒの御霊代が盗まれる」の報が入ると、天皇は直ちに笠縫村(かさぬいむら)のトヨスキイリ姫の元へ使いを走らせました。

「八咫鏡(やたのかがみ)」が危ない! のです。
これは皇位の印であり超一大事なのです。
天皇はトヨスキイリ姫に「命がけで守ってくれ」と頼み、姫は「八咫鏡」を抱いて、その日の夜、こっそりと笠縫村から姿を消したのです。
後に、ヤマト姫に「八咫鏡」託し、守りぬき落ち着いた所が伊勢です

盗まれたのはニギハヤヒの御霊代であったのが不幸中の幸いでした。
「八咫鏡」が危ないのです。
天皇は御霊代を盗んだふとどき者が一体誰なのか、この時はまだ気づかれていなかったのです。

ニギハヤヒの御霊代が盗まれて心配しておられる天皇に重臣のある者が「ヌナキイリ姫の後を大田タネコという者で大物主神(おおものぬしのかみ)の子孫がおりますが、その人に祀らせてはいかがでしょうか」と天皇に進言した者がいたのです。

日ごろ信頼している側近の言葉に天皇もついその気になられたのです。
『日本書紀』には重臣三人がそろって「大物主神を(御諸山)に大田タネコが御守りすれば世の中がたちどころに平らぎます」と天皇に申しあげました。

天皇は大田タネコを呼んで「お前は一体誰の子か」と聞かれると
「父を大物主大神、母をイクタマ姫」と答えたので、大田タネコを大物主神を祀る祭主とした、とあります。

天皇が大田タネコに誰の子かと尋ねられたのは血筋を問われたのです。
天皇は大物主神(ニギハヤヒ)の血筋である事を確認されたのです。

こうして、御諸山で大田タネコがニギハヤヒの尊称・大物主大神をお祀りすることになりました。

大田タネコとは、シラギ神崇拝教の回し者で男である!騙された天皇

乗っ取りの手口

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

日本書紀』を要約すると
「皇女(ひめみこ)モモソ姫は大物主神の妻となったのですが男は夜だけ来たので姫が顔を見たいというと、明日の朝わかりますと言うので、次の朝になると、三輪山の小ヘビであった、姫は悔いて、ドスンと座り、箸で陰部を突いて死んでしまわれた」とあります。

これは、こういうことなのです。
モモソ姫が三輪山の社(やしろ)の大田タネコの息子と結婚しました。
男は姫が子を孕んだので安心して自分の素性を打ち明けたのです。
聞いて驚いたのはモモソ姫です。
まさか、耳を疑ったのです。
大田タネコは大物主の子孫であるというのでニギハヤヒの子孫と思って喜んで結婚したのです。
ところが、大田タネコは、何と出雲のシラギ神崇拝教の男であったのです。

タネコの大田〈おうた〉とは出雲の「意宇だ」ということで、俺は出雲の大田(意宇だ)タネコであったのです。

三輪山の大田タネコの言う大物主とは出雲のシラギ神であったのです。

モモソ姫は声も出ないくらい驚いたのです。
騙されたのです。まさか、まさか……
すでにお腹に大田タネコの息子の子供を宿しているのです。
取り返しがつかないのです…

御諸山の大田タネコはニギハヤヒの子孫ではなく、出雲のシラギ神崇拝教の男であったとは…
噫~ ああ~ その正体を知ってしまったのです。

モモソ姫はどのくらい悔やまれたでしょうか、悩まれたでしょうか。
悔やんでも悔やみきれず…憎んでも憎みきれないほど、憎らしい男なのです。
その男の子はお腹で育って、だんだん大きくなるのです。

モモソ姫は、信頼する人に薦められて縁組をしたのに、大田タネコはニギハヤヒの子孫であると思って結婚したのに… 天皇まで騙しているのです。
出雲のシラギ神崇拝教の男なのです。
イソタケルの子孫であったのです。 

自分は皇女(ひめみこ)です。
自分の産んだ子は天皇の孫なのです。後にその子が大田タネコを背景にして、天皇の位を揺るがすかもしれないのです…

モモソ姫は、天皇をもだましているイソタケルの血を引く子を産んではならないと覚悟をきめたのです。
皇女としてかたい決意をしたのです。
堕胎(だたい)など自分の命が危ないことを知りながら…ついに…モモソ姫は命を落とされたのです。

箸で堕胎するほど、ヘビにたとえた嫌な男・大田タネコはオオクニヌシのシラギの子供・イソタケルの九代目の子孫であったのです。

天皇 謀略に気づく

天皇はモモソ姫の驚くべき死によって、初めて謀られた事に気づかれたのです。
御諸山を出雲のシラギ神崇拝教に騙されて取られてしまったことに、ここにきてはじめて気づかれたのです。
しかし遅すぎたのです。

天皇とモモソ姫の思う大物主大神とはニギハヤヒの事です。

朝な夕なに感謝のお祈りを捧げておられた尊いお方なのです。
ところが大田タネコのいう大物主大神とは、出雲のオオクニヌシが新羅の女に生ませた子のイソタケルであったのです。

御諸山に大物主大神と称してイソタケルが祀られていることをこの事件で天皇ははじめて気づかれ驚かれたのです。

しかもそれは信頼する重臣の勧めであったのです。
モモソ姫も、天皇も、大田タネコはニギハヤヒの子孫であると思い込んでいたのです。
まさか出雲の、新羅のイソタケルの子孫であるなどとは夢にも思わなかったのです。

二神を宮中から出すよう進言した占師も出雲のシラギ神崇拝教の手先であり、御霊代を最初から奪うつもりで宮中から外へ出すよう勧めた事に、天皇はこの時初めて気づかれたのです。

出雲のシラギ神崇拝教は最初から計画的に「八咫鏡」と「勾玉の首飾りと剣」を奪い取るつもりだったのです。

天皇や皇女の周りには大田タネコの息のかかったシラギ神崇拝教の信者がすでに入り込んでいたのです。

天皇の知らぬ間に出雲のシラギ神崇拝教の手が回ってしまっていたのです。
天皇はここにきて、モモソ姫の潔い死にあって、初めて、御諸山を騙されて取られてしまった取り返しのつかない失態に気づかれたのです。
事の重大さに愕然とされたのです。

この時、出雲にやられて以来、御諸山には最初はシラギ神が、後に祭神がすり替えられて出雲の神とシラギ神が今日なお祀られ続けているのです。

ヘビのように執念深いシラギ神崇拝教に対して、天皇に何の力もなし

第十代崇神天皇

今谷明監修『物語と写真でわかる天皇家の歴史』新人物往来社から引用

大和のある天孫の老人に
三輪山が何故ヘビなのですか?」と尋ねると
執念深いということだよ」といいました。

イソタケルが死んでから九代程経っているのです。
まさにこの上なく執念深いのです。
御諸山を乗っ取るという野望を九代目にしてやっと叶えたのです。

そして
山の名を皇室の御諸山(みもろやま)から三輪山(みわやま)に変えたのです。
ニギハヤヒの御霊代の盗難とヌナキイリ姫の衰弱、皇女(ひめみこ)が「八咫鏡(やたのかがみ)」を持って姿を隠す、御諸山を乗っ取られる、モモソ姫の結婚詐欺と堕胎死、天皇はどのくらい残念で、無念で、悲しい思いをしておられるか、はかりしれません。

ひたすら耐えておられるようすです。
こんなにまでされて、何故、天皇は積極的に動かれなかったのでしょうか。
国で一番偉い御方ではなかったのでしょうか。

天皇を護衛する天皇の指揮下にある軍隊がなく、どんなにひどいめにあわれても何もすることができない程、何ら直接天皇を守る軍事的備えを持っておられなかったのです。

天皇は権威だけを持ち、身を守る武力がなかったのです。
自らを守る力がない弱みにつけ込まれたのです。

モモソ姫の墓を大田タネコが消す、しかし逆に消され箸墓古墳となる

箸墓古墳

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

モモソ姫が箸(はし)で堕胎(だたい)しようとして死んだことが世間で大評判になり、世間の人達はモモソ姫に同情して姫の墓を箸墓(はしはか)と呼んでモモソ姫をいつまでも哀れんでいるのです。

三輪山の大田タネコにしてみれば自分の血を引くことを忌み嫌って堕胎したなどとは大恥なのです。
大田タネコはその恥話を打ち消すために自分の墓の大造営を思いつき、モモソ姫の墓に隣接して大きな古墳の造営をはじめました。
そしてその造営中にモモソ姫の墓を壊して消してしまったのです。

ところがこんどは世間はそのタネコの古墳に箸墓とあだ名をつけて箸墓古墳と呼ぶようになり、本来姫の墓を消すつもりで造ったのに、世間は箸墓古墳と呼んで、まるでモモソ姫の古墳であるかのように、タネコは逆に自分の墓を消されてしまったようになっているのです。
箸墓古墳は大田タネコの古墳と思われます。

その頃三輪山の神官の大田タネコは大きな箸墓古墳を造るほど、ある意味では天皇をしのぐほどの力をこのときすでにもっていたのです。

出雲の土中から険や銅鐸がまだ発掘されるはず

険や銅鐸の発見

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

十代崇神天皇、十一代垂仁天皇の時代に朝廷ではたびたび出雲の神宝調査をしています。
『日本書紀』には神宝と書かれていますが、大和朝廷では剣一千口を準備して備えたのですから出雲に大量の武器が集められたので武器の調査をしたのです。

加茂岩倉遺跡(かもいわくらいせき)の大量の銅鐸や荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)の大量の銅剣が発掘されていますが島根県内からは鋳型(いがた)が出ていないのです。

十月は神無月(かんなづき)といって諸国の神々が出雲に集まり地方にはいないと今でもいいます。
出雲は各地方から出雲へ来る神官達に、地方の神社の神宝の剣や銅鐸をシラギ神への忠誠の証に出雲に持ってこさせたのです。
それで出雲に大量の剣や銅鐸が集まったのです。

表向きシラギ神への忠誠心の証と上手いこと言って実質は武器を集めたのです。
そして大和朝廷を滅ぼすための戦の準備をしたのです。

出雲の土中から武器

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

そして大和朝廷が調べにくることがわかると慌てて剣や銅鐸を土の中に隠したのです。
これが加茂岩倉や荒神谷遺跡だと思います。

神無月(かんなづき)が定着するほど、全国から大勢の神官が出雲に集まり大盛況を極めた時代が長く続いたと思われます。

大和朝廷が対抗して剣一千口を備えたのですから、もっとたくさんの銅剣、銅鐸が集められているはずです。
ですから銅剣や銅鐸を埋めた遺跡は今後まだまだ出雲で発掘されるはずです。

ホヒを倒した頃の出雲は飛騨や大和朝廷に太刀打ちできなかったのです。
しかしこの頃には、出雲は武力で大和朝廷を倒すだけの力をつけており一触即発の危険をはらんでいたのです。

天皇が出雲の社を造営、天照大神から十五代目にして大逆転を果たすシラギ神崇拝教

垂仁天皇

今谷明監修『物語と写真でわかる天皇家の歴史』新人物往来社から引用

十一代垂仁天皇は出雲の「曾(ソ)の宮」(後の出雲大社)を造営されました。
古事記』に、垂仁天皇には、ものの言えない皇子があり、出雲大社に参拝するように勧められて出雲へ行くと、皇子はそこでヒナガ姫に会いました。

その姫をよく見るとヘビなので皇子は慌てて逃げると、姫は追っかけてきました。
大和へ帰ると皇子はものが言えるようになりました。
それで天皇は喜ばれて神宮(出雲大社)を造営された、とあります。

天皇にはもはや跳ね返す何の力もなく、天皇は出雲にひたすら機嫌をとって社(やしろ)を造営されたのです。
天皇も出雲の機嫌をとらねば危うかったのです。

かつて天照大神はオオクニヌシから出雲の統治権を返させオオクニヌシを幽閉しましたが、ここにきてオオクニヌシの子供のシラギのイソタケルを神に祀る社を天皇が造営されることになって、とうとう逆転されてしまいました。
天照大神から十五代目の出来事でした。

(山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用)

天皇の重臣の家に色仕掛けで入り込み?大和天孫族を狙う

話しは戻りますが、十代崇神天皇の重臣達までがなぜそこまでシラギ神崇拝教にのめり込んでいるのかということです。

モモソ姫を騙して子供を孕ませたようにシラギ神崇拝教の男達は天皇の親戚の家の娘に目をつけたのです。

シラギ神崇拝教の男に騙されて子供を孕んだ娘達は子供が生まれてしまったのです。
出雲のシラギ神崇拝教は恐ろしい牙を隠して天皇の近親や、天孫の幹部に何代も前から色仕掛けで入り込んでいたと思われます。

シラギ神崇拝教という宗教だけではなく、色仕掛けで天孫に食い込んでいなければこれだけのことにはならなかったと思います。

真面目で素朴で純真な天孫が、とんでもなく悪賢くずるい出雲のシラギ神崇拝教勢に太刀打ちできないのでした。

シラギ神崇拝教 天孫村を次々と攻めていく

エッタに落とされた天孫

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

ニギハヤヒの御霊代(みたましろ)を盗まれ、御諸山(みもろやま)を乗っ取られ、皇女(ひめみこ)が死に追いやられ、皇女が「八咫鏡」を背負って出雲から逃げ…

そして天皇は社を造って出雲のご機嫌を伺っているのです。
かつて大和朝廷に太刀打ちできなかった出雲が宗教で攻めて大和一の宮に居座り、出雲は大和朝廷を脅かすほどの武力を備え、今では天皇さえある意味で押さえるほどにのし上がってきたのです。

ここまで力をつけたシラギ神崇拝教は世間の情勢を伺ったのです。
そしてある夜中に天孫達が住んでいる村に攻め込んだのです。
天孫たちは最初から住んでいますから、当然交通の要所を押さえ、最も良い場所に居を構え、所有地を沢山持っているのです。
そこを狙ったのです。

かごめ、かごめの歌の中で、夜明けの晩にと歌っていますから、もうすぐ夜が白々と明けるその前に、攻めこんだと思われます。

出雲勢は最初から攻めるつもりですから武器を準備して、武装しておりますが、夜中に、寝ている最中に不意を突かれた天孫村では、驚き、慌てふためきました。

天孫の男達は、勇敢に防戦したのですが、何の準備もなく、多勢に無勢、骨を砕かれ、腰を折られて無残に殺されてしまったのです。
妻達は年寄りと子供を連れて命からがら逃げたのです。
天孫の村次々と攻め取られる。

天孫村が攻められた情報が入ると他の天孫村でも慌てて守りを固めましたが、要所を抑えられて分断されて孤立した天孫村は次々と出雲のシラギ神崇拝教勢に攻め取られました。

天孫が大勢集って住んでいる大きな村は、シラギ神崇拝教勢もかなわないと見てか攻めずに残りました。(後に、被差別部落へと落として仕返しをした)

天孫達は先祖が土地を開墾してくださった懐かしい土地を追い払われて、親戚を頼ったり、逃げました。

しかし、落ち延びた先へ、出雲勢がまた攻めこみました。
天孫達は逃げて、逃げて、時には川端へ、山奥へ、逃げていきました。
逃げても逃げても、出雲勢は執拗に追いかけていじめました。
それからというものは、天孫達はその日生きるために、野原の草を摘み、木の実を食べ、山芋を堀り、生きるために食べれるものは何でも食べて命をつなぎ、大変な苦労が始まりました。

(山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用)

以来、天孫(飛騨)をエッタ(穢多)・ヒエッタ・と呼び被差別部落やサンカを作る

サンカ

沖浦和光著『幻の漂泊民・サンカ』文藝春秋から引用

天孫は飛騨から降りた人の子孫たちです。

その方々は真面目に一生懸命にひたすら働くことしか知らないきわめて純朴な方々でした。
何故天孫と敬われたのかというと、かつて飛騨は日抱きの御魂鎮めの中心地でした。
飛騨から降りた人々は精神統一がよくでき病気を治す力をもっており、多くの病む人々を助けたのです。
それで天孫と感謝され敬われていたのです。

ところがこのときを境に尊い天孫たちは一気に穢(けが)れ多いエッタに、山奥に逃げた人たちはサンカに、人ではない四ツに、突き落とされたのです。

エッタとは飛騨のことです。
ひだ、ひえった、ひった、えた…飛騨の奴らということです。

出雲のシラギ神崇拝教勢にこのとき攻め滅ぼされて、このとき以来、被差別部落に突き落とされてしまったのです。

それからもう抜け出すことが不可能な子々孫々まで長いながい気が遠くなるほど長い苦難の道がはじまったのです。
筆舌に尽くせぬ苦労のなかで、天照大神と古神道と天皇だけはどんなことがあっても片時も忘れずに守りぬいたのです。

シラギ神崇拝教に古神道が負ける

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

天孫と尊敬されていた建国の功労者達の子孫がエッタにサンカに転落したこの歴史的大事件を『日本書紀』は「野見宿禰(ノミノスクネ)と当麻蹶速(タイマノケハヤ)が御前で相撲をとり野見宿禰が勝った」話しに象徴させたのです。

十一代垂仁天皇の御代のことでした。
『日本書紀』は野見宿禰(ノミノスクネ)とは出雲の出身と書いていますが当麻蹶速(タイマノケハヤ)とは何処の誰なのかを書いていません。

野見宿禰の宿禰(スクネ)とは貴人につけた尊称です。
当麻蹶速の出身をわざと書かずに隠し、名が蹶速(ケハヤ)とは毛が生えている四ツということでありバカにしているのです。
古神道を守る天孫を意味しているのです。
古神道の天孫が負けて殺されてしまったことを意味しているのです。

しかも「あばら骨をふみ砕かれて、腰をふみくじいて(残虐に)殺されてしまった」と『日本書紀』は書いています。

清く、尊い、崇高な古神道がこの時を境に日本から消え去ったことを意味しているのです。
古神道は天孫とともにめちゃめちゃにやられて殺されてしまった、つまり惨敗して消えてなくなってしまったのです。
相撲はそれを表しているのです。

さらに「天皇は当麻蹶速の土地を没収して野見宿禰にあたえられた(日本書紀)」とあります。
これはシラギ神を崇拝する出雲勢が、天孫達の住んでいる所を襲って土地を占領したことを意味しているのです。

シラギ神崇拝教がかつて天孫達が住んでいた土地を所有して住んでいるのは、これはけっして奪ったのではなく、天皇が相撲で負けた者から没収して、勝った者に “ほうび ”にくださった土地であるとわざわざ主張しているのです。

実際には力ずくで奪ったことを「相撲で勝った褒美である」と「大ウソ」をついて正当化し、「正当化」したものが『日本書紀』に書かれているのです。

ニギハヤヒの御霊代が盗まれて御諸山を乗っ取られ、皇女(ひめみこ)が騙されて死に追いやられ、皇女が「八咫鏡」を背負って逃げ…

そして天皇は出雲の社を造らされて出雲にご機嫌を伺う、かつて大和朝廷に太刀打ちできなかった出雲が宗教で攻めてついに天孫村を襲って乗っ取ったのです。

出雲で起こったシラギの神を崇拝する新興宗教に、日本に人間が現れたそのときからあった古神道が滅ぼされてしまったのです。

そしてシラギ神を拝まない、天皇とともに飛騨を先祖とする天孫が人間界からはじき出されてしまったのです。

『日本書紀』に書かれているノミノスクネがタイマノケハヤに相撲で勝った話は古神道が天孫とともに滅びてしまったという重大なことを意味しているのです。

出雲大社由緒略記』には「相撲をとった」と書かず野見宿禰は当麻蹶速を「討ち」と書いていますから武力で攻めたことはまちがいないのです。

この天下分け目の大勝利を鶴山と亀山の神事相撲に象徴させ、ホヒを殺して出雲政権を乗っ取った一連の神事の最後に加えて「曾(ソ)の宮」の祭りに行ったのです。

さて出雲勢が暴力で奪った場所はどこでしょうか。
今となってはハッキリとはわかりませんが、天皇の御世が二十余代も過ぎた三三代推古天皇に時の大臣の蘇我馬子(ソガウマコ)が「葛城県(かつらぎのあがた)は元、私の本貫(ほんかん)であります。
どうか私に永久にその県(あがた)を賜(たまわ)りたい」と言って、断られています。

馬子は飛鳥川の辺に家居し、飛鳥石舞台(あすかいしぶたい)に葬られています。
蘇我蝦夷(ソガエミシ)は自家の祖廟(そびょう)を葛城(かつらぎ)にたて、蘇我蝦夷と入鹿(イルカ)は家を甘橿岡(うまかしのおか)に並べて建てています。(日本書紀)

出雲のイソタケルを先祖に持つソ氏は、葛城、飛鳥を奪い、その後だんだんとのし上がって蘇我を名乗るようになります。
ノミノスクネの相撲に表している出雲勢が乗っ取った土地は他にもあると思われますが葛城、飛鳥の地です。

亀石

山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用

まとめ

自分らの残虐非道の言い訳か
日本書紀』に十一代垂仁天皇の御代に天皇の弟が亡くなられた時に近習が生身のまま陵のめぐりに埋められ昼夜泣きうめきついに死んだ、ノミノスクネが、君主の墓に生きている人を埋めることはよくない事です、土で作った人や馬を生きた人に替えて入れたらどうでしょう、と進言し天皇は「お前の意見は我が意を得ている」と褒美に土地をもらったとあります。

古来日本には生き埋めの殉死の習慣はないのに、あたかもあるかのように書いて、ノミノスクネがやめるよう進言してやめさせたと書かれているのです。

これは、シラギ神崇拝教つまり出雲勢が天孫たちに対して残虐非道をし、そのやり方があまりにも酷く世間の人々がシラギ神崇拝教の信者たちでさえ非難したのです。

その言い訳に残虐なのは飛騨である、飛騨から降りてきた天皇を代表する人々は殉死という恐ろしい習慣を持っている、それを出雲のノミノスクネが進言してやめさせたのである、であるから出雲は優しく飛騨は残虐である、とまったく逆のことを作りだして言いふらしたのが後に『日本書紀』に書かれたと思われます。

出雲勢は自分たちの残虐非道を隠すためについた大ウソです。
大陸の殉死の話しがここで利用されたのです。

天皇が亡くなると側近が生き埋めでは、誰も天皇にお仕えする人がいなくなります。
スメラミコトは、自分の家族を犠牲にして、皆のために尽くしてくださったやさしい偉大な人格者です。

(山本健造原著/山本貴美子著『裏古事記ねじれねじれて二千年』福来出版 引用)